先日、とあるお客様から「お仏壇ってどうしても主人と一緒に入らないといけないのですか」という質問を受けました。
基本的には家族単位でお祀りされるお仏壇ですが、もしも亡き家族のことが嫌いな場合、どうすればよいのでしょうか?
家族ベースで作られている日本社会
「死んだあとも、あの人と一緒にいなければならないなんて」
このように絶望している人は、少なからずいることでしょう。
生きている間に離婚や縁起りをできていれば、死後の供養まで考えなくてもいいのですが、そうでない場合、やはり葬儀や供養は遺族がしなければなりません。
日本社会は、家族をものすごく大事にします。
たとえば、身寄りのない方が亡くなった場合、行政機関は、葬儀の喪主として、あるいは遺骨の引き取り手として、まずは家族や親族を探します。
死亡届の「届出人」の欄も、【同居の親族】【同居していない親族】【同居人】【家主】【地主】・・・の順に並びます。
遺産相続の法定相続人も、故人の配偶者と血族に限られています。
個人の生き方が尊重される時代、弔いや供養の方法も多様化しています。
もっとも大切に考えるべきは、手を合わす人、手を合わされる人、双方の心の安らぎですから、仏壇や位牌を別々にしようと、永代供養にしようと、心が安らぐ形を選んだらよいと思います。手を合わすことで不愉快になる仏壇は、仏壇側だって本意じゃないでしょう。
ただ、日本社会はいまでも家族という単位を大事にしていますし、夫婦、親子、先祖と子孫というつながりをベースに社会が作られているというのもまた、避けがたい一面です。
家族別々の供養は不可能ではない
夫婦や家族を別々に供養することは不可能ではありません。事情を説明すれば、お寺側も受け入れてくれるはずです。
たとえば件のお客様の場合…
- 自身の実家の仏壇に入る
- 希望のお寺に永代供養を申し込んでおく
…などの方法があります。
子や孫がいるのなら、「お父さんとは別々に供養してね」と、事前にその想いを伝えておきましょう。
また、子や孫のいない方も、死後事務委任契約を用いることで、友人や知人、専門家に死後の供養を任せられます。個人化が進む時代に合わせて、社会の方も柔軟に対応できるよう変化しています。
ところで、この章段の見出しを、「家族別々の供養は可能」とせずに、「家族別々の供養は不可能ではない」と表現したのは、「できなくはないが、大変ですよ」というニュアンスを伝えたかったからです。
なぜなら、あなたの供養はあなた自身がすることではなく、遺されただれかがする営みだからです。
どんなにあなたが夫婦別々の供養を希望していても、遺された人がその想いを形にしてくれるかどうかは不明瞭です。あなたの供養は、あなた自身の想いよりも、遺された人の想いによって左右されるのです。
仏壇が、家族を仲良くさせてくれる
この世では、さんざん迷惑かけられた。どうやっても馬が合わなかった。憎たらしくてしょうがない。
しかし一方で、どんなに憎たらしい相手でも、この世の人でなくなることで、自分の中から「赦し」のような感情が芽生えることもあったりします。
ぼくは以前、「聴くことは癒し。故人さまの思い出を語っていただくための3つの糸口」という記事を書きましたが、お客様から聴く故人さまの生前のお姿は、必ずしもいいものばかりじゃありません。
「本当に迷惑ばかりかけられました」
「頑固で、人の話を聞かない人でした」
「自分勝手に生きてましたね」
…などと語る人も、少なからずいます。また、何も語らない方は、表情で察することもできます。
でも、多くの方は、まあそれはそれとして、仏壇を構えて故人を供養しなければと考えるようです。だから仏壇屋さんであるぼくを自宅に招き入れているわけですよね。
もう二度と顔を見なくて済む、口をきかなくて済むとなったとたんに、相手の立場に立って物事を考えられたり、怒りや嫌悪に執着していることそのものがばかばかしくなったり、するものです。
また、自分の中では憎しみが消えなくても、子どもたちに助けられながら、仏壇を購入し、供養されるという方もいます。
生前のいがみあいや世俗の執着は、あの世に持っていくことはできません。
「主人も仏壇の中では新入りの一年生。仏さまに睨まれて、たくさんのご先祖さまに囲まれて、せいせいするわ」と、半ば冗談を交えて語るご婦人もおられました。
「父と母は仲が悪かったし、どうしようもない父でしたが、まあ、ぼくたち子どもたちがしっかりとふたりを供養していきますよ」と語る息子さんもおられました。
そうやって、亡き人を仏壇の中に納めて、時間をかけて供養していくことで、なんとなくギスギスしていた感情がゆるむということもあるんです。
憎いあいつと同じ仏壇に入りたくないという気持ちも分かりますが、仏壇が、家族を仲良くさせてくれることだって、あるのです。
仏壇がもたらせてくれる「赦し」の感情
「赦し」の感情を持つことは、とっても苦しいですよね。
でも、聖人たちはみな、「恨むな、赦せ」と説いています。
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
(マタイの福音書18章21~22節)
怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。
(ダンマパダ:『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)
あれほどまでにムカついていた旦那を、それでも、しっかりと供養して、自身の中でその存在を受け入れるというのは、並大抵のメンタルではつとまりません。
憎きあいつとの日々は、黒歴史にしかほかなりませんが、黒歴史を黒いままにしておくことも、またしんどいことです。
この黒を白にしてくれるのが、実はお仏壇の力じゃないのかなと思います。
憎きあいつとの日々を黒から白にひっくり返すには、あなたとあいつのそれぞれが、ともに白に変わる努力をしなければなりません。オセロのように、ふたりの間の黒は、ふたつの白で挟むことでしか、白にひっくり返らないからです。
そこで仏教は、おもしろい死後の物語を紡いでくれています。
「故人は、死後仏弟子となって、修行を積まれています」
「阿弥陀如来さまが極楽浄土に往生させてくださいます」
宗派によって若干の教えの違いはありますが、どちらとも「仏に成る」と説いているわけですね。
真っ黒だった憎き旦那も、仏さまの世界で、きびしい先輩たちに囲まれながら、修行を積んで、白になろうとがんばっているわけです。
そんなあいつがいる仏壇に毎日向き合っていると、あなたの心の中の恨みもゆっくりと溶けていき、黒がだんだん白になっていくんじゃないのかなあと、思うんです。
しかも仏壇の最奥には、仏さまがおられます。あなたの心の葛藤や、憎き旦那の死後の修行を、見守ってくれているのです。
時間こそかかるかもしれません。でも、毎日お仏壇に手を合わせていると、
「まあ、あいつにもいいところはあったよね」
「いまでもムカつくけど、あいつのおかげで学んだこともあった」
「あいつにも、あいつなりの考えがあったんだろうな」
…と、きっと赦しの感情が芽生えてきます。
そのころのあなたの精神状態は、かなりおだやかな心地になっているはずです。
どうしても許せないのなら、旦那さんと同じお仏壇に入らなくても構わないです。
でも、お仏壇には、その「許せない」という感情を和らげてくれる力があることも、知っておいてもらえたらなと、思います。
<追伸>
そういえば昔、「仏壇オセロ論」みたいなものを書いたことがあります。こちらの記事も、ぜひ!
『人生はオセロ いまを白にすればすべてくるっとひっくり返る』
仏壇カタルシスとは…
仏壇店に勤務するライター・玉川将人が、
インド仏教最高指導者・佐々井秀嶺師からの…
あなたが仏壇の本を書きなさい。
ここにいる人たちの力を借りて
ここにいる人たちのために
本を書きなさい。
…という宿題を成しとげるべく、仏壇にまつわるお話を語っていきます。
あなたの力を貸して下さい。あなたのためのことばを綴ります。
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