たかが80年の生き死にの問題すら解決できない私たちには、1000年続くお寺があるじゃない!

こんにちは。とむらいマンです。

大切な人の死に接すると、

私たちはひどく落ち込み、動揺し、うろたえるものです。

自分たちでは処理しきれな大きな問題に直面した時、

私たちは自分たちの存在を超える何かを仮定して、

その者のせいにします。

そうした物語を作り上げないと、

この大問題を処理しきれないからです。

死にもいろんな死があります。

闘病の果て

事故死

自殺

自然災害

事件に巻き込まれる

戦争

それはそれは、さまざまです。

もちろん中には、

天寿を全うして眠るように亡くなる人もいます。

私もそうなりたいなあ。

どれだけテクノロジーが進化しようとも

死の恐怖は取り除けません。

死を遠ざけることができても、

死をないことにしてごまかすことができても、

女の人がぱたぱたたたくファンデーションの下から

うっすら見えるシミのようなもので、

これは、もう、どうしようもないのです。

自分たちの存在を超える何か、ってなによ?

そうなりますよね。

その正体は、

世界中、

さまざまな時代で

さまざまな地域で

さまざまな言語で

語られてきました。

それらを体系化したのが、宗教です。

人は死後の世界を考えます。

考えなきゃやってられない生き物です。

それに応える物語を欲しています。

さて、いろんな宗教がいろんな神仏を語っています。

仏教だけでも、諸仏、めちゃめちゃおります。

ですから私たちはなにのどの仏様を拝んでいいのか、よくわからない。

わたしたちが、お葬式の時にお寺さんを呼ぶのは、

「阿弥陀如来のお慈悲に~」

「日蓮上人のみ教えを~」

とか、正直どうでもいいんですよ、多分。

むしろ、そのお寺、その宗派、その教え、その作法が、

100年をはるか超えて1000年もの伝統を積み上げていることに安心するんだと思います。

人生80年の生死の問題すら処理できない私たちは、

私たちよりも長く生き続けているものに、その問題を丸投げします。

でなきゃやってられないほどに、死の問題は大きく、深い。

たしかに目の前のお坊さんは30代の若い青年かもしれない。

僕たちと同世代。ドラクエもしたし、スラムダンク観てバスケしたかもしれない。

でも、目の前の彼は、1000年もの伝統を背負っている。

母の葬儀の時に、お坊さんのお経がめちゃめちゃ身に沁みたのを覚えてます。

普段は、もにょもにょ、何言うとんねんって感じでしたが、

愛する母に向けられて経文には、

不思議で、かつ圧倒的な力が宿っていた。

その形式、決められた抑揚には、

このお経が、大昔から、日本中のいたるところで、

同じように詠みあげられてきたのだということを、

幼いなりに直感したのでした。

1000年続く伝統の力。

バカにできませんよ。

がんばれ、お寺!

とむらいマン

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