大切な方を亡くしてしまうと、その人はどこか遠くに行ってしまったみたいで、会えないこと、話ができないこと、手を握ることができないことに、深い悲しみと苦しみを覚えます。
でも一方で、時々、次のようなことばを耳にします。
「亡くなったあとの方が、身近に感じる」
ぼく自身、そう感じることがありますし、ぼくのまわりでも、このことばに共感してくれる人が、意外に少なくないんです。
亡くなったあとの方が、母を身近に感じる
位牌を作りに素心に来られたMさん。
位牌の注文を受ける時、ぼくは、そこに連ねられた戒名の文字などから、故人さまの生前の人柄や、思い出話を聞かせてもらいます。
Mさんの場合、長年お母さんと馬が合わなかったのだとか。
それでも、お母さんの話をしていくうちに、後悔や後ろめたさなど、さまざまな感情があふれてきたのでしょう。目尻に涙をためていました。
そんなMさんに、ぼくは次のようなことばを投げかけました。
「そうやって涙が出るということは、きっとお母さんも涙を流しているのだと思いますよ」
「どうしてそう思うのですか?」
Mさんとお母さんとの関係をぼくはよく知りません。ただ、仕事柄いろんなお客様と接していると、「亡くなった方はきっと遺された方とひとつになりたい」、あるいは「なろうとしているんだろうなあ」と、思えてしまう場面にたくさん出会います。
Mさんにも同じものを感じたぼくは、
「Mさんの涙は、きっとお母さんの涙でもあるんですよ」
…とお伝えしました。
するとMさんの目は、少しばかりうつろになり、なにか遠い昔の記憶をたぐり寄せているような表情で、黙り込みます。でも、目の奥はなにかを探している。
「きっとお母さんとつながろうとしている」
ぼくは、Mさんが自らことばを発するまで、静かにその目の動きを眺めていました。すると…
「わたしね、お見舞いすら、ほとんどしなかったんです」
「そうでしたか」
「でも、亡くなる2週間くらい前、どうしても会っておかなきゃと思って、母のいる広島まで駆けつけました。そして、母と対面したんです」
「はい」
「だからといって、何か親しく話ができたわけではなかった。でも、最後に会えてよかったと思っています」
「よかったですね」
「玉川さん。とても不思議な感じがするんです。なぜか分からないけど、亡くなったあとの方が、母を身近に感じるんです」
ぼくたちはひとつになろうとしている
H1法話グランプリ2021の舞台上で、田中宣照さん(真言宗・西室院住職)は、約1000人の聴衆に向かって「大切な方を亡くしたあとの方が、その存在をより身近に感じられる」というお檀家さんのことばを披露しました。
そして、自らも父を亡くした田中さんも、次のように感じているのだそうです。
「父のために父のためにと祈っていたのですが、むしろ、父がわたしを祈って下さっているというような安心感に包まれる。こういう感覚に、徐々に変わっていきました」
詳しくはこちらの記事を読んで頂きたい。
故人に手向けられる読経が、いつしか故人からわたしへの読経になっている。
身近な存在である故人さまは、もっと距離を縮めて、やがては自分自身と融けあう感じになっていくのでしょう。
祈るわたしと、祈られる相手。この主客が混交する感じ。
ぼくがやってる『死生観ラジオ』にゲスト出演して下さった、お坊さんYouTuberの武田正文さん(浄土真宗本願寺派・高善寺住職)も、
「自分が南無阿弥陀仏と唱えるんだけど、同時にこの南無阿弥陀仏は、亡くなられた方が仏になって届けてくれている。そしてその時(お念仏の)主体と客体が入れ替わるのが、おもしろい」
…というようなことを話していました(くわしくはこちらの動画↓)。
亡くなったあとの方が、身近に感じる。距離が縮まる。さらには自分と相手がひとつになったり、入れ替わったり。
それってもう最終的には「死者と自分がひとつになる」ということに他ならないのではないかと、ぼくには思えてしまうんです。
ぼくの声はユニゾン
この感覚を言語化するには限界があって、同時にとっても野暮だと思ってます。
でも、この感覚を伝えたい、分かち合いたい、共感したいと思ってしまう以上、がんばって言語化してみます。
どうして亡くなったあとの方が身近に感じられるのかというぼくなりの仮説は、
身体を失った故人さまは、遺された人間の認識次第でどのようにでも生かし続けられるから
…というものです。
生きている人は、意志や自我を持っています。これは、他人であるぼくではどうにもコントロールできません。
だから、生きている者同士は分かり合えないことがたくさんある。自我と自我が衝突しあったり、自我を自分の中に押し隠したり。
目に見えて、声が聞こえて、肌に触れられる存在なのに、その人が何を考え、何を感じているのか分からずに、ぼくたちはいつも悶々と苦しんだりもします。
でも、その人が亡くなってしまったら、その人の存在をどう認識するかは、生きている人次第なわけです。
その人は、この世界から死んで亡くなってしまった。でも、その人の存在は、ぼくの中で生かし続けることができます。
目に見えない、声が聞こえない、肌に触れられないことを辛く感じている人もいるかもしれません。
でも一方で、目に見えない、声が聞こえない、肌に触れられない存在だから、その人をこちらが思うままに認識できるようにもなるのかもしれません。
その人を天国にやるか、地獄に落とすか、自分の中に重ね合わすかは、もうぼくたち自身の受け止め方で自在になるんですよね。
もちろん、亡き人との距離感は、人それぞれです。
故人を身近に感じる。
大切な人の不在がずっと苦しい。
死してなお憎たらしい。
それは、ぼくたちの心の中が人それぞれなのと一緒で、亡き人の立ち上り方も、きっとその投影なのかもしれません。
死者に自我があるのかもしれないし、霊魂のはたらきがあるのかもしれません。と同時に、死者は生者の投影でもあると思うのです。
ぼくの声がユニゾンに聞こえるのも、ぼくの思い込みなのかもしれない。
でも、それでも構わない。
だって、ぼくの声は、ユニゾンなんだから。ぼくの中で、死者たちはいきいきと生きているのだから。
その感覚が、生きてあることを支えとなるのなら、それはとっても喜ばしいことです。
そして、いつの時代、どこの場所にいても、人々は死者と自分が融け合う感じを求めている。
ぼくにはそうにしか、思えないのです。
ぼくの声はユニゾン
ぼくの中には、亡き父、母、兄、祖父母、たくさんの死者やご先祖さまがいます。
ぼくの放つ声は、亡き人たちの声が重なり合うユニゾンです。
キーボードを叩くぼくの指先にも、死者や先祖の存在を感じます。
そんなぼくが、佐々井秀嶺師からいただいたこのことばを寄る辺にして、
日々感じたこと、考えたことを綴ります。
あなたが本を書きなさい。
ここにいる人たちの力を借りて
ここにいる人たちのために
本を書きなさい。
あなたの力を借りて、あなたのために、ことばを綴ります。
今日という日が、あなたにとってよい日となりますように。
そして、ここに綴ったことばの一つひとつが、
あなたの幸せのお役に立てますように。
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