AI仏壇に愛はあるのか?~『令和の虎』平田茉莉花さんのプレゼンを考える~|仏壇カタルシス#15

虎の子(志願者)が虎(投資家である審査員)たちにプレゼンをして出資を募る大人気YouTubeチャンネル『令和の虎』。

2024年5月1日配信分では、26歳の女性が「AI仏壇サービス」なるものをプレゼン。AIで故人と会話ができるプロダクトに高い関心が寄せられたのか、配信後12日で50万回再生(5月13日現在)と、他の動画と比べても堅調のようです。

ふだん仏壇に囲まれて仕事をし、四六時中弔いについて考えているぼくも、この動画の感想と、AI仏壇の限界点や可能性について考えてみました。

令和の虎。動画の詳細

まずは簡単に、動画の詳細をまとめておきます。

虎の子(志願者)

平田茉莉花さん(26)。LimerenceAI代表取締役。

プレゼンテーマ

亡くなった方の人格・思想・記憶をAIの力で残して関わり続けられるサービスを実現したい!

プロダクト開発のきっかけ

AIテクノロジーを活用することで、社会課題の解決だけでなく、生命の限界を突破できるのではと、代官山を歩きながら思いついた。

プロダクトの詳細

契約時にテキストチャットの履歴をAIに読み込ませ、その他300の設問に回答。
家族はAI化した故人にアクセスすることで、いつでも会話ができる。
バージョンのアップデートにより、最新の社会情勢などを学習させることも可能。
初回3年間は年300万円。4年目以降は年100万円。

虎(審査員)たちの主な反応

特に目立った虎たちの指摘をまとめました。

  • 倫理的な問題のリスクヘッジがなされていない。
  • 死者のことばに左右されない方がいいのでは。
  • ヒトラーのような危険思想を現代によみがえらせることだってある。
  • 頻繁に故人と話したいと思わない。お盆だけでいい。
  • 死後も自身の思想を遺すことは故人のエゴだ。
  • AIのことばが、子どもたちや後世の人たちの行動を制限してしまう。
  • 誰もが思いつくサービス。資本力のある企業が手掛けたらデータ量で負ける。
  • 「(心の)弱い人」には刺さるサービスかも。
  • 故人に対して二度残酷なことをしてしまう(死別の時と、契約を自ら終える時)

などなど、手厳しい指摘が相次ぎます。

最終的には、平田さんが事業計画の詰めの甘さを自覚し、涙を流す一幕も。その姿に虎たちが感銘を受けるという形で動画は終わります。

興味がある方はぜひ動画本編をご覧ください。

【FULL】「クソですね」虎の猛攻が始まる。故人と会話ができるAI仏壇サービスを作りたい【平田 茉莉花】[560人目]令和の虎

動画を観た率直な感想

さて、この動画を観たぼくは、正直、是非がつけられないことに戸惑いました。

つまり、「肯定もできるし、否定もできる」「可能性も感じるし、限界も感じるし」という具合です。

しかも、いろいろとあれこれ考えてみて、最後には自分の中での腹落ちというか、妥協ができればいいのですが、その着地点も見つからない。つまり、

「本当に、どう受け止めるべきか分からない」

…という迷路にはまってしまったのですね。(だから、こんなブログを書いている)
ということで、この記事では動画を観て感じたことを洗いざらい書いてしまいます。

AI仏壇の物足りなさ

まずは、AI仏壇の物足りなさについてです。以下のようなことを感じ、考えました。

死者との対話は、自身との対話

一番はじめに思ったのは、「死者との対話は、自身との対話であるべきでは?」ということです。

もうすでにこの世界に存在しない死者と対話することは、物理的に不可能です。

でも、自分の中からは亡き人への思慕がとめどなくあふれてくる。その想いを差し向けるものとして、写真や動画など、生前のすがたを記録したものがあります。

また、供養という意味においては仏壇やお墓という場所がありますし、位牌は死者そのものと考えられてきました(これを「依代よりしろ」と言います)。

こうした「モノ」と向き合って、ぼくたちは死者と対話しますが、でもそこで交わされるすべては「内部対話」なんですよね。

つまり、自分自身の中で死者の存在を感じ、死者のことばを生成する。一人で二役を担うのですが、これがとても大切なのではないでしょうか。

内部対話をくりかえすことで、ぼくたちは死別の事実を受け入れ、ゆっくり死者と同化し、そしてやがては自分自身もこの世界を離れていく身となるのだと思います。

AI仏壇は、自分自身の中で生成される死者のことばを奪い取ってしまうのではないのかなと、危惧してしまいます。

深みのない、上っ面の対話

人間は、五感でこの世界のあらゆるものを知覚しますが、すでにこの世界にいない死者の存在を感じるということは、五感(目、耳、鼻、舌、口)を超えた世界での営みです。

だって、その人の身体はもうこの世界から消滅してしまったのですから、姿を見ることも、声を聴くことも、匂いを嗅ぐことも、キスも、肌に触れることも、できない。

それでもぼくたち人間は、死者とつながりたい生き物です。五感を超えた世界でも、たとえその人が死んでしまったとしても、アクセスしたいんです。

仏教の「唯識思想」には、人間には8つの意識作用が備わっているとしています。五感をさらに超えたものとして、意識、末那識、阿頼耶識がある(ちなみに、この末那識や阿頼耶識の領域を、心理学者のフロイトは「無意識」として提唱しました)。

死者との内部対話は、無意識領域の営みそのもの。このへん、ぼくの感覚でしかないのですが、きっと五感を超えた無意識領域での活動の活発化が、人間の精神性や霊性を豊かにし、多幸感につながるのではないのかなと、感じています。

しかし、AI仏壇がもたらすものは、再現された死者の音声と、映像と、人工的に生成された言語だけです。

働かせる感覚器官は、主に視覚と聴覚だけになり、そこに意識が集中してしまう。五感を解き放つどころか、五感を限定しちゃってることが、死者との対話を、上っ面で、感度の鈍い、深みのないものにしてしまうのではないかなあと、感じます。

身体性の欠如

対話や祈りは、身体全体で行ってこそ、より深い満足感が得られます。

神社やお寺やお墓まで足を運ぶ。
仏壇をお掃除する。
お花やお線香を供える。

祈りのために事前に行われるこうした一連の営みも、すべて身体的な行為ですし、このように手間ひまかけることがよかったりするんですよね。それはきっと、死者とアクセスするために、身体をしっかりと動かし、それが「実感」をよりたしかなものにしてくれるからでしょう。

そして、手のひらを合わせて、お経なり、お念仏なり、身体全身から、あるいは体の奥深くからことばを発する。こうした営みも身体性を伴っています。

五感を超えた領域でしか死者とアクセスできないと書きましたが、五感を超えるには五感をフルに開放しないといけません。お寺、神社、お墓、仏壇などの宗教空間は、そのための仕掛けが実によくできている。(詳しくはこちらの記事へ「五感で感じるお仏壇の世界」

AI仏壇では、こうした豊かな身体性を感じられるのかな、などと考えてしまいます。目と、耳と、言語だけで構成されたコミュニケーションに、どうしても深みを感じられなさそうなのです。

死者との対話、交感というのは、深い領域でしか行えないし、その深い領域に降りていく作業を繰り返すことで、悲しみがゆっくりと癒され、やがてはそれが幸せへと転化していくのではないかと考えるのです。

AI仏壇の可能性

一方で、AI仏壇の可能性のようなものもまた、ある気がしています。

外部対話を求める人もいる

ぼくはさっき、内部対話が大切だという話をしましたが、中には、内部対話ができないほどのグリーフに苦しんでいる人だっているはずです。

死の事実を受け入れられず、生前のあの人に会いたい、触れたい、話がしたいと願う人だって必ずいるはずです。

そのような方にとっては、AI仏壇はとても有効なものかもしれません。

バーチャルに感情移入する時代

ぼくたち人間は、ボカロや、VTuberなど、バーチャルなものに全然感情移入できてしまう生き物です。であるならば、精巧に作られたバーチャル故人にも感情移入できるでしょう。

そもそも、さまざまな宗教が説く「死後観」というのは、すべて経典や聖典にまとめられた物語をベースにしていますから、それ自体、フィクションです。人類はそのフィクションを信仰し、共有し、その中に、幸せや救済を見出しているわけです。

大日如来や阿弥陀如来のような仏典の中で語られる仏さまもいれば、釈迦やキリストのように、実在の人物が神格化したケースも数多くあります。

それらを再現したものとして、世界中の人たちが、仏画や仏像、聖画や聖像に心を込めて礼拝しているという事実。

平面に再現された絵や、立体的に再現された像に信仰が集まるのならば、デジタル空間で再現されたAI神仏やAI故人がぼくたちの幸せ、救済、心の支えになることだって、十分にあり得ることですよね。

モノ→シンボル→デジタル

もともとは、形ある「モノ」を見て、触り、嗅いで、その存在を認識してきたぼくたち。人間はその「モノ」を、シンボル化し、やがてデジタル化させていくのでしょう。

たとえば、古代の中国では、死者の頭蓋骨を祀り、そこに故人の魂を呼び寄せていたそうです。いわゆるシャーマニズムです。

そして、この頭蓋骨をシンボル化させたのが、いまも使われている位牌です。

頭蓋骨も位牌も、手に触れられる「モノ」ですが、前者は死者そのもの、後者は死者を表す「モノ」という違いがあります。

位牌は、仏具職人が作った、名前の彫られたただの木の札板です。それに向けて儀式を行うことで、そこに故人本人が宿ります。そういうことになっているのです。

遺された家族だって、そこに本当に故人がいるとは思っていないものの、位牌に故人が宿るとしておくことで、心の中にスイッチが入り、精神世界で故人とアクセスできる。

そういう意味では、死者を位牌という形にシンボル化することには、大きな意味があります。位牌はいわば、生者と死者をつなぐ「メディア」なのです。

であるならば、AI仏壇だって同じじゃないかと思います。人が作ったAIの仕組みに、故人にまつわる膨大なデータを読み込ませるのは、そこに故人を宿すことに似ています。

遺された家族は、それが本当の故人だとは思っていないものの、限りなく故人らしくアウトプットされる映像、音声、言語を通じて、心の中にスイッチが入り、交感しあうことだって、ありうるのではないかと考えるのです。AI仏壇もまた、生者と死者をつなぐ「メディア」なのです。

AI仏壇に愛はあるのか?

と、まあ、考えると本当にキリがない。

AIの登場によって、「人間」の定義がきっと変わるのでしょう。そうすると、死生観や死後観も、大きく変わってくる。こうした流れはきっと避けられないのでしょう。

26歳の女性の思い付きで始まったプロダクトとはいえ、とある人間の思い付きが10年後や20年後に大きなうねりとなって、この世界を変えていくという事実を、ぼくたちは歴史から、近過去から、すでに学んでいます。

一番大事なのは、AI仏壇に向き合って、愛を感じられるかということです。

ベタなことばですが、本当に大事なことだと思っています。

死者に愛を注げるか、死者からの愛を感じるか。

ぼく自身はその愛を「死者との同化」だと思っています。ぼくたち、一緒だよね、ひとつだよね、つながっているよねという感覚を、全身で感じられることが、愛に満たされた状態であり、弔いの最終的なゴール地点なのかなと。

そのためには、身体性をともなって、五感をフルに開放することが大事。仏壇には、こうした仕掛けがたくさん散りばめられているんですよ。

でも、伝統的な仏壇のかたちに固執してしまうぼくは、動画の最後で木下博勝さんが言ってたように、老害なのかもしれません。

デジタルネイチャーの世代の人たちは、アナログとデジタルの境界を軽々と超えていく。そんな現象そのものは、好意的に受け止めたいです。

こんな感じで、つらつら綴ってきましたが、AI仏壇は自分一人で考えても埒があかない大きな問題です。だれかに話を聞いてもらおうかな。


仏壇カタルシスとは…

仏壇店に勤務するライター・玉川将人が、
インド仏教最高指導者・佐々井秀嶺師からの…

あなたが仏壇の本を書きなさい。
ここにいる人たちの力を借りて
ここにいる人たちのために
本を書きなさい。

…という宿題を成しとげるべく、仏壇にまつわるお話を語っていきます。
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