ぼくの声はユニゾン。歌手の八代亜紀さんと、亡き父との思い出を少しばかり。
この惑星の八代亜紀は、泣ける。
ぼくは歌謡曲や演歌について、そんなに詳しくないのですけど、
そんなぼくでも知っているくらいに
八代亜紀さんの『舟唄』は、あまりにも有名です。
八代亜紀さんの歌声はよく「ハスキーだ」と言われますが
この英語表現があさましく思えるくらいに
その歌声には霧のようなものがかかっていて
それをかき分けた先に、
深い詩情、悲しみが見えてきます。
その深さ、ぼんやりさが、いいんですよね。
霧がかかっているから、
聴き手がそれをかき分けようとするし
霞が立ち込めているから
聴き手がその奥にあるものを見ようと目を細める。
だから、阿久悠さんが歌詞の中で、
「時々霧笛が、鳴ればいい」
…と綴ったのは、すばらしい。
だれもが共感できる情景と
八代亜紀という唯一無二の歌声を引き合わせた
天才的としか言いようのない歌詞世界を
象徴する一節なのです。
八代亜紀さんは
自身の歌手としてのスタンスを
「表現者ではなく代弁者だ」と
常々語っていたそうです。
八代亜紀さんが代弁してくれる歌声に
多くの人が
自分の悲しみを仮託したのです。
あの娘とヨ 朝寝する ダンチョネ
『舟唄』のかっこよすぎるのは、
真ん中あたりで挿入される『ダンチョネ節』。
沖の鷗に深酒させてヨ
いとしあの娘とヨ
朝寝する ダンチョネ
船乗りは、鴎の鳴き声とともに
朝早く起きなければなりません。
「鴎に深酒させて、愛しのあの娘と朝寝がしたいよ」という
船乗りの心情を歌った大正時代の流行歌です。
ダンチョネは「断腸ね」の意味。
大正時代の流行歌は
その後も、いろいろな替え歌となって
その時代の″断腸”を歌ってきました。
有名なのは小林旭の『ダンチョネ節』。
戦地に赴かなければならない飛行機乗りの悲哀が歌われています。
八代亜紀のコンサートを断る
腸が断ち切られるまでに、
どうにもならない痛み、悲しみ、苦しみ。
八代亜紀さんの歌声に
その悲しみを投影したのは
ぼくの父も例外ではありませんでした。
父と母はとても仲のよい夫婦だったのですが、
ぼくが22歳の時
母は突然亡くなってしまいます。
それから、
父とぼくによるふたり生活が始まったのですが
男同士の暮らしは辛気臭くて、陰気臭い。
それでも息子は落ち込む父を支え、
父は田舎に引き戻した息子に負い目を感じている。
日当たりの悪い、国道沿いのわがや。
毎日がどん詰まりでした。
ある日父が、
「八代亜紀のコンサートに行かんか」
…と誘ってきました。
当時22歳のぼく。
ロックばかり聴いていたぼくは
辛気臭い演歌を陰気臭いオヤジと観に行くことに
反射的に抵抗しました。
そして父は
誘う友達すらおらず
ひとりでコンサートに出かけたのです。
戻ってきた時の嬉しそうな顔。
笑うと目じりや頬がしわくちゃになるのですが
その皺の深さは、そのまま
父の孤独を表していたように思います。
未練が胸に 舞い戻る
八代亜紀さんも、父も
ともに1950年、昭和25年生まれ。
しかも、ともに8月生まれなんですね。
母を亡くした父は、
その2年後、自ら命を絶ちます。
そしてその20年後
八代亜紀さんも、帰らぬ人となります。
あの時、父と
八代亜紀さんのコンサートに行っておけば。
訃報を聞いた瞬間
未練が胸に、舞い戻りました。
人生は″手遅れ”の連続です。
その未練に寄り添ってくれるかのように
『舟唄』は、つぎのような歌詞で
終わります。
ぽつぽつ飲めば ぽつぽつと
未練が胸に 舞い戻る
夜ふけてさびしくなったなら
歌いだすのさ 舟唄を
ぼくの声はユニゾン。
八代亜紀さんへの追悼は、
そのまま父からの追悼でもあります。
そして父はぼくにこう言っています。
未練を残すな、いまを生きろ。
それでも掬いきれない未練があった時に、
八代亜紀を聴け、と。
ぼくの声はユニゾン
ぼくの中には、亡き父、母、兄、祖父母、たくさんの死者やご先祖さまがいます。
ぼくの放つ声は、亡き人たちの声が重なり合うユニゾンです。
キーボードを叩くぼくの指先にも、死者や先祖の存在を感じます。
そんなぼくが、佐々井秀嶺師からいただいたこのことばを寄る辺にして、
日々感じたこと、考えたことを綴ります。
あなたが本を書きなさい。
ここにいる人たちの力を借りて
ここにいる人たちのために
本を書きなさい。
あなたの力を借りて、あなたのために、ことばを綴ります。
今日という日が、あなたにとってよい日となりますように。
そして、ここに綴ったことばの一つひとつが、
あなたの幸せのお役に立てますように。
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