自殺はどうしていけないのか|ぼくの声はユニゾン#012

今日は9月14日。兄の命日です。

毎年9月10日から16日は自殺予防週間なのですが、この期間中に兄の命日があるのも、なにかの縁なのかもしれません。

自殺はよくないの違和感

自殺予防週間があるのは、自殺が防がれるべきものだからです。そのことに異論を持つ人はいないでしょうし、ぼくもそう思います。

でも、「自殺はよくない」という考えに触れるたびに、ちょっとした違和感に突き当たります。それは、

「自殺は、だれにとって、よくないの?」

…ということ。

遺された人たちにとって、自殺はよくない。うん、それは分かります。
社会にとっても、自殺はよくない。うん、それも分かります。
でも、自殺した当人にとっては、「それはよくないよ」とは簡単には言えません。

「そうしたかった」「それしか方法がなかった」…というのが正直なところだと思うと、そんな彼らにぼくはどうしても「自殺はよくない」とは言えない。

自殺せざるを得なかった父や兄の否定につながるような気がして、どうしてもそのことがうまく受け止められないんです。

もちろん、ぼくは自殺を推奨したり、肯定したり、擁護しているわけではありません。

自殺なんてしたくないし、してほしくない。自殺ということばが何よりも重くのしかかるのは、ぼくたち人間にとって、生理的に、心情的に、社会的に、自殺がよくないものだからであり、それは間違いないのでしょう。

でも、だからといって、自殺を選択せざるを得なかった人たちの苦悩、空虚、絶望のようなものを、ぼくはやっぱり否定できないんです。

父と兄に限って言うなら、彼らから受けたたくさんの愛情、ともに過ごした時間、記憶や思い出が、ぼくをそういう気持ちにさせるのかもしれません。

「なんで自ら死んじゃったんだよ、バカヤロー」

という気持ちはあるものの、

「しんどかったんだよね。何もできずにごめんね」

と思ってしまうのです。

自殺は悪ではない

ぼくは、世界の宗教が自殺をどのように捉えているのかを調べてみました。

そこで行き当たったのが、横田南嶺さん(臨済宗円覚寺派管長)の「自死について」というブログでした。

横田さんはこのブログの中で、仏教学者の佐々木閑さんのことばを紹介しています。

「一部のキリスト教やイスラム教では、せっかく神が与えてくださった命を勝手に断ち切るのだから、それは神への裏切り行為として罪悪視される。自殺者は犯罪者である」と書かれています。

そういう教えもあるのでしょう。

では仏教ではどうなのか、「自殺」と書くからには、「殺生戒」を犯すことになるのでしょうか?

佐々木先生は、

「では仏教ならどうか。仏教は本来、我々をコントロールする超越者を認めないから、自殺を誰かに詫びる必要などない。

確かに寂しくて悲しい行為ではあるが、それが罪悪視されることはない」

と言われるのであります。

キリストやイスラム圏では自殺が犯罪と考えられていることに驚くとともに、「それが罪悪視されることはない」という一文に、思わず安堵したぼく。この安堵は不謹慎なのだろうかと思いつつ、ブログを読み進めます。

「人は自殺などすべきではないし、他者の自殺を見過ごしにすべきでもない。

この世から自殺の悲しみがなくなることを、常に願い続けねばならない」

と仰るのですが、

「しかしながら、その一方で、自分の命を絶つという行為が誇りある一つの決断だということも、理解しなければならない。

人が強い苦悩の中、最後に意を決して一歩を踏み出した、その時の心を、生き残った者が、勝手に貶めたり軽んじたりすることなどできないのだ」

と語っておられるのであります。

「自分の命を絶つという行為が誇りある一つの決断」

このことばに、どれだけの死者が救われることでしょうか。

ひとつ間違えると誤解を生みかねないだけに、佐々木さんの勇気と覚悟を伴った、選び抜かれたことばとして、ぼくの中で響きわたります。

「自殺はよくない。でも、罪ではない」という佐々木さんや横田さんの考えが、ぼくの抱く違和感を多少なりとも和らげてくれました。

自殺はしないで!

ここまで書いてきたことは、すべて自殺をしてしまった人に手向けることばです。

自ら命を絶ったあなたの孤独、悩み、苦しみ、絶望、諦め、覚悟、虚脱、そして決断を、ぼくは受けとめます。

でも、いままだこの世界に生きているあなたには、「自殺はしないで!」と強く伝えたい。

死んでしまったら本当に何も残らない。残るとしたら、悪いものだけ。

ぼくは常々、「ぼくの声はユニゾンだ」と言い続けています。

それは、「自他不二」「主客未分」とも言えて、要は、本来ぼくとあなた、自分と世界は、すべて境界がなく、ひとつで、溶け合っているんだという世界観です。

亡くなった人の痛みは遺された人の痛みであるし、遺された人が心を痛め続けている限り、あの世でもあなたは痛みに苦しんでいる、そういうものだと、ぼくは信じています。

「死んだら苦しみから解放される」と思いたい気持ちは分かりますが、でもきっと、そんなことはない。その証拠に、あなたとつながっている人たちは、あなたの亡きあと、ずっと苦しみ続けなければなりません。

あなたのために、ぼくらのために、世界のために、「自殺はしないで!」と叫びます。

あなたの声を聴いてくれる人が、必ずどこかにいます。
あなたの居場所を認めてくれる場所が、必ずどこかにあります。

いまでこそ、ぼくの中には、亡き父や兄がいて、「ぼくの声はユニゾンだ」なんて、言えています。

でも、彼らが自ら決断するまで、家族として彼らの苦悩に寄り添えなかったことは、痛恨の極みです。

自殺は、やっぱりよくない。自殺はしないで。

亡くなってしまった人の決断は尊重します。

でも、今はまだ生きていられている人は、どうか、その命を生きてほしい。

いま「死にたい」と思う人に見てもらいたいサイト

いま、生きることが辛いあなたに、こちらのサイトをおすすめします。まずはアクセスしてみて下さい。

いまぼくがあなたにできる、せめてものことです。

Yahoo!ニュース「生きるのがつらいあなたへ」

生きるのがつらい方のためへの特集記事や情報がまとめられています。自殺を踏みとどまることのできな人たちへのインタビューや、さまざまな取材記事を読むことができます。また、さまざまな相談窓口の案内も。

生きるのがつらいあなたへ ― 「死にたい」「消えたい」と思ったら
今つらいあなたへ、つらいひとを支えるあなたへ、伝えたい情報をまとめています。

hasunoha

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https://hasunoha.jp/

ぼくの声はユニゾン

ぼくの中には、亡き父、母、兄、祖父母、たくさんの死者やご先祖さまがいます。
ぼくの放つ声は、亡き人たちの声が重なり合うユニゾンです。
キーボードを叩くぼくの指先にも、死者や先祖の存在を感じます。
そんなぼくが、佐々井秀嶺師からいただいたこのことばを寄る辺にして、
日々感じたこと、考えたことを綴ります。

あなたが本を書きなさい。
ここにいる人たちの力を借りて
ここにいる人たちのために
本を書きなさい。

あなたの力を借りて、あなたのために、ことばを綴ります。

今日という日が、あなたにとってよい日となりますように。
そして、ここに綴ったことばの一つひとつが、
あなたの幸せのお役に立てますように。

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