仏壇が”箱型”である理由を考えてみた|仏壇カタルシス#2

毎日、仏壇店の店頭に立っていますと、

「仏壇なんてなくていい。手を合わせる場所があればいい」
…という声も聞けば、

「それでもやっぱり仏壇があった方がいいような気がする」
…というお客様もおられます。

わざわざ仏壇なんて買わなくても、手を合わせる場所(=仏壇的なもの)があればよさそうですが、それでも最終的にはお仏壇を買う、という人が少なくありません。

そして、仏壇屋さんのポジショントークなんかじゃなく、ぼく個人としても、亡き人を想う場所として、おうちのなかに仏壇を置くことをおすすめします。

どうして、”仏壇的なもの”を作るよりも仏壇の方がいいのか。

そしてどうして仏壇は”箱型”なのか。

今日はそんなことについて語ります。

仏壇を買おうかどうか迷っている人は、だまされたと思って、ご一読ください。

仏壇とは、家の中の聖域

結論から先に言うと…

仏壇とは家の中の聖域であり、手を合わせる時、聖域と俗域をきっぱり分けることで、ぼくたちの心をよりしっかりと落ち着けられる。

…これがこの記事で伝えたい、ぼくの仮説です。

でも、これだけだと、

「聖域と俗域って、なにが違うの?」
「どうしてきっぱり分けるほうが心が落ち着くの?」

…といった疑問が湧いてくることでしょう。それらについても、一つひとつ丁寧に、自分なりの考えをお伝えしようと思います。

なお、ぼくたちは家の中でいろんなことをして過ごしますが、この記事の大前提として、「世俗的な営み」と「神聖的な営み」を、次のように分けて考えます。

●世俗的な営み
食事、睡眠、風呂、着替え、排泄、勉強、ゲーム、漫画など

●神聖的な営み
祈り、願い、弔いなど(この世の次元ではない存在にアクセスすること)

では、まいりましょう。

【仏壇と時間】手を合わす時は、あるがままの自分に立ち戻れる

ぼくたちは、毎日をとにかく忙しく過ごしてます。

朝起きて、スマホチェックして、歯磨きして、スマホチェックして、朝ごはん食べて、スマホチェックして、会社行って、スマホチェックして…。

家事に、仕事に、子育てに、介護に、趣味に、恋愛に、友だちに、職場の人間関係に…。

子どもたちも、学校に、部活に、塾に、漫画に、ゲームに、グループチャットに、友だちとの人間関係に…。

中には「忙しくないぞ」「暇だぞ」という人もいることでしょう。でも、そのダラダラ垂れ流している無為な時間に虚しさを感じてたりしてしまう。

人間にとって、なんにもない「ボーっとする」時間、いわゆる隙間時間みたいなものがすごく大事だと分かっちゃいるものの、その隙間時間すらスマホが奪っていく。(この記事だって、きっとスマホで読まれてる!)。

世俗に生きる現代人の時間ってそんな感じだと思うのですが、「手を合わす」という営みは、そうした時間をいったんせき止めることで、世俗から距離をとる効果があります。というか、せき止めないと、手なんて合わせられない距離をとれない。

「いったん手を置く」という表現がありますが、まさに、あれこれしちゃう‟手”をいったん置くことで、故人さまや仏さまに向き合って、‟手”を合わせられるようになる。

大切な人を亡くした悲しみや戸惑いで心が弱っているあなたには、一旦手を置き、心を落ち着けて、手を合わせる時間が大切です。それは、手を合わす瞬間、ぼくたちは、あるがままの自分に立ち戻れるからです。

「あるがまま? あるがままって何?」

あなたに限らず、ぼくだって、誰だって、人間って多面的な生き物です。

家の中での顔、職場での顔、学校での顔、友だちといる時の顔、みんな異なる顔をしている。相手に合わせて、空気を読んで、ぼくたちはいろんな顔を使い分けています。

でも、そうした仮面や鎧を取っ払った先に、あるがままの自分ってのが、あったりしますよね。家族にも、同僚や友人にも見せられない姿、言えない想い。愚痴、吐露、願い、祈り…。

不思議なもので、亡き人と向き合う瞬間というのは、そういう「あるがままの自分」でいられる感覚に包み込まれます。

死別が悲しいなら悲しいままのあなた。悲運に毒づきたいなら毒にまみれたままのあなた。後悔しているなら自己嫌悪したままのあなた。

自分の弱さ、卑しさをさらけ出したまま、亡き人や仏さまに対峙する。それが礼拝というものだと、ぼくは思います。

むしろ、礼拝こそが自分の弱さをさらけ出せる時間・場所とも言えるのかもしれません。

世俗の時間をせき止めて、神聖な時間を過ごすことで、大切な人と向き合い、自身を見つめ直す。そこであるがままの自分を取り戻し、そしてまた、多面的な世俗世界に飛び込んでいく。

そのための場所が、お仏壇なのです。

【仏壇と空間】地続きでなく、明確に区切れ!

ここからは、仏壇という聖域空間について考えたいと思うのですが、仏壇とはきっと、F1におけるピットのような、ドラクエにおけるセーブポイントのような場所なのかなと。

ピットは必ず守られています。車を減速させ、停めて、摩耗したタイヤを新しく取り替える。レースは続いているけれど、ドライバーはつかの間の休息をとれます。

セーブポイントも必ず守られています。そこにモンスターはやって来ないし、次にゲームを再開するまで、ずっと勇者たちを守り続けてくれます。

ピットやセーブポイントは、地続きじゃダメなんです。明確に「ここがピットだ」「ここがセーブポイントだ」としておかないといけません。

「まあ、このへんに車停めとこか」と中途半端な場所に停車して、うだうだタイヤ交換していると、後続車に激突されるかもしれません。

「セーブも適当にこのへんで」なんて中途半端な場所で休息をしている内にモンスターに襲われて、HPが4とかまで減ってしまったら、泣くに泣けません。

仏壇も、そうあるべきなのです。

手を合わす瞬間、あなたは世俗の苦しみや捉われから解放されて、神聖な時間を過ごすことができます。そして、過ごす時間が神聖ならば、身を置く場所も神聖であってほしいと欲するのです。

伝統的な日本家屋には、「仏間」と呼ばれる和室があります。庭に面して、その間に縁側があって、床の間があって、そして仏壇が置かれる。この場合、和室そのものが他の部屋から区切られた、死者やご先祖さまにアクセスできる特別な空間(=聖域)として機能してます。

しかし、現代の住宅は、戸建てでも、マンションでも、仏間のない家が増えています。そうすると、世俗的な営みも神聖的な営みも、それぞれを同じ部屋でしなくちゃいけません。

だからこそ、同一空間の中で、「ここだけはちょっと違うぞ」と感じさせてくれる場所が大事になってきます。それこそが、仏壇を置くべき最大の理由です。

街の中にある神社やお寺といった聖域を見てみると、必ず明確に俗域と区切られているのが分かります。玉垣や白壁などで囲まれ、出入口にも鳥居や山門がある。それは、聖域と俗域を区別していることに他なりません。

神社やお寺で、「なんか落ち着くわ~」「なんか癒されるわ~」と、心がリフレッシュされるのは、仕事や学校や人間関係など、世俗の世界で苦しんでても、清浄な場所として守られているその場の聖性にふれることにより、心が解放されて、落ち着き、癒されるからです。あるがままの自分でいられるからです。

ぼくたちホモ・サピエンスはは、祈り、願い、弔いがなければ生きてはいけない生き物のようです。太古から、そうした時間を過ごすための聖域を、ぼくたち自らが求めていたのです。

仏壇が‟箱型”である理由

だいぶ長く話してきましたが、地続きの‟仏壇的な場所”よりも、空間をきっぱりと区切ることのできる仏壇の方が、よりしっかりと手を合わせられる、というのがぼくの考えです。

“仏壇的な場所”って、机の上や戸棚の上などに、本、雑誌、ぬいぐるみ、置物、テレビなどと並んで作られます。もちろんそうした場所で、故人さまを偲ぶことができるのであれば、それはそれで構いません。

でも、そこに箱状の仏壇を置くことで、地続きでなく、空間に区切りが生まれ、箱の中だけは清らかに守られます。

最近では、家具や調度品との調和のとれた仏壇が人気ですし、オシャレでかわいい仏壇もたくさんあります。

世俗的な生活空間の中に、少しだけ区切られた、少しだけ際立った、少しだけ特別な場所を構えることで、手を合わせる時、より深く、より確実に、仏さまや故人さまにアクセスできるのでは、と思うのです。

小さくてもいいんです。安くてもいいんです。

世俗的な生活空間の中に、一隅の聖域を作ることが、故人の冥福と、あなたの幸せのために、大事なんです。


仏壇カタルシスとは…

仏壇店に勤務するライター・玉川将人が、インド仏教最高指導者・佐々井秀嶺師からの…

あなたが仏壇の本を書きなさい。
ここにいるいつの人たちの力を借りて
ここにいる人たちのために
本を書きなさい。

…という宿題を成しとげるべく、仏壇にまつわるお話を語っていきます。
あなたの力を貸して下さい。あなたのためのことばを綴ります。

PS 次回は、仏壇の中の「暗さ」について、綴ろうかな…。

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