還俗僧侶の懺悔を聴く 小池龍之介さんと若かりし日の僕

もしも「悟り」があるならば、

人と人との間にしか、見つからないよ。

だってそれが、人間道。

 

こんにちは。とむらいマンです。

知らない人の懺悔を聞くという妙な体験をしました。

その人の過去の所行を知らないのに、懺悔を聞いて何になるのか(笑)

しかし、人の懺悔にはその人の過去がふんだんに詰め込められていて、

どことなく、若い頃の僕と重なることがあったのです。

 

小池龍之介さん 解脱失敗の懺悔を80分

 

小池龍之介さん。

すみません。僕ぜんぜんこの人知らなかったのですが、

知らない人のことをテーマにブログを書くと言う所業をお許しください(これがもうすでに懺悔)。

というのも、こんなブログに出会った。

 

 

なんでも、解脱を目指して、(解脱ですよ、あの解脱!)

いや解脱を目指すどころか

「まもなく自分はもう解脱できるのだ!」

という確信から旅に出て、(まもなく解脱って、まじすごいじゃん!)

野宿を繰り返すうちに自身の限界にぶちあたり、

「解脱失敗!」と自らを悟り、

仏道に生きることをやめた小池龍之介さん

…という人の懺悔の音声が、ちょっとした話題なのです。

 

1番目:懺悔1(小池龍之介より)

 

ちなみに、解脱とはこういうことです。引用ドン!

解脱とは、仏教においては、煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦を脱して自由の境地に到達すること。悟ること

引用元:Wikipedia「解脱」

全部で5つに分けられ、80分もある上、期間限定配信らしい。

これを全部聞くなんて、よほどの物好きですよ。

んで、僕も聞きました(物好きか!)。

まあ、途中までなんですけどね。

はい。なるほど。ほうほうと。

はじめて出会う人の懺悔を長々と聞くなんて、

僕、この人が、何をして来たかなんて、全然知らないし、

過去も知らないのにその懺悔を聞くというのも変な感じでしたが(笑)

想うところがたくさんあったので、ついつい。

実は、若かりし日に弘法大師を追いかけて仏道修行的な生活を送っていた僕。

そのへんのことも絡めて、今日はちょろちょろと綴ろうかと。

 

イケメン、インテリ、アウトロー そらあ賛否が渦巻きます

ぜんぜん知らないというものの、そういえばなにかの拍子でWikipediaでちょろっと調べたな、というのは思い出したんですよ。

なかなかのイケメンで、インテリで、アウトローで、ビッグマウスのお坊さんだったため、何かと注目を浴びていた方だそうですね。

そらあ、目立つし、賛否も渦巻きますよね。

本もよく売れ、本山寺院に破門を言い渡されても、生き方死に方悟り方を指南しながらもくじけず自らも解脱を目指すだなんて、これ、ある意味、すんごい菩薩行をしておられます。

小池さんのこのたびの還俗宣言とその懺悔に対しては賛否両論あり、僕はどちらの声にもふんふんなるほど頷いてしまいます。

たとえば、松本紹圭さんは、小池さんにたいして、共感と同情と尊敬を交えて、おおむね肯定されている(というか、小池さんと対比して自分自身を語っているのか…)

 

 

一方こんな否定的な意見も。

 

「ビックリ人間大賞」とか、「大仁田」という言葉のセンスにも舌を巻きますが、なるほどこうしたツイートからは小池氏のこれまでの取り組みと、それに対しての周りの評価の一面が見えてくるようです。

さて、僕はここで小池氏を賛否するつもりは毛頭なく(というか、昨日初めて知った人の何を語れるというのだ!?)

ただ、そういえば自分も一時期仏道にのめり込んでいたし、最終的には俗世間で生きていくことを決めたものだなあと、

若かりし日を思い出してしまったのです。

誇大妄想とか、勘違いとか、絶望と挫折とか、

分からなくもないのです。

拝み屋さんにのめり込む日々 「自力本願」という言葉にすがる


もちろん比較するにはおこがましい方ですよ。

かたや東大生であり、こちらは中堅私大の文学部。

学歴的にも親の経済的負担においても彼の方が優秀なのは言わずもがなです。

僕の仏道生活は、両親の影響です。

家は浄土真宗でしたが、両親は弘法大師を信仰していました。

よくありがちないわゆる”拝み屋さん”が家の近くにいたのです。

商売や家庭がうまくいかない両親は、次第に信仰にのめり込んで、その拝み屋さんに相談と除霊をしてもらってました。

除霊っていうけど、本当に「霊」なんてあるの?と気になりますよね。

でもね、

「その肩こりは霊の仕業」

「なんかイライラするのも霊がおるんよ」

的なことを言われてますとね、普段人生や生活がうまくいってない人にとっては、「もしかしたら霊が悪いことしているのかもしれない」と思い込んでしまうものなんです。

ただ、この拝み屋さんは決して悪徳ではなかったですよ。

「とにかく生きるということそのものが行なのだ」

「苦しみから解き放たれるにはご先祖様に感謝して供養するしかない」

「自分のことは自分しか救えない」

というようなことを言ってて、この辺は妙にリアリストで、好きでしたね。僕。

拝み屋さん、基本いつも笑顔で腰が低い。

高額なお布施を迫ることもなく、「無理のない範囲でお布施をしてくれたらいいんですよ」というスタンスを貫いていたので、なかなかすごい人だなぁと16歳の僕は感心していたのです。

かくいう僕は中学生の終わりぐらいから、

どう頑張っても周りの人達と上手くコミュニケーションがとれなくなり、

友達を作りたい気分にもならず、

休みの日は家に引きこもり、

文学全集を読み漁りながらロックに傾倒するような、

まあどこにでもいるような暗い青春を送る少年でした。

どうして僕がその拝み屋さんにひかれたかと言うと、

「自力本願」という言葉をしきりに口にしていたからです。

 

他人を救うことはできない。

自分を救うのは自分だけだ

 

この言葉はいまも僕の根底に沁みついています。

真言密教と真宗の教えは相反するのですが、孤独を愛し、孤独に苛まれていた僕は、

この「自力」という言葉に惹かれました。

ただ、いま思うと、周りの誰かと繋がってなくてもいいという、引きこもりの言い訳ができたようなものでした。

尖ること、孤立することが「自力」ではないのに、

当時の僕は、その言葉にすがり、逃げていたと、いまなら分かるなあ。

朝に修行、昼に読書、夜にアルバイト

 

僕は、高校生、そして大学在学中も、さらには中退後も、半僧半俗の生活を始めます。

家は家族同士が愛し合っているのにバラバラで崩壊しかけていたという、とっても特殊な状態でした(この辺は語るととっても長くなるので、またいつかの機会に)。

「この悪い状態を立て直すにはきちんとご先祖様を供養しなきゃならん!」

僕は拝み屋さんの教えに忠実になり、

毎朝山を走り、冷水を体中に浴び、

身を清めてから、

家の仏壇、そして大日如来や不動明王を祀る手作りの祭壇に向かって

約2時間お経をあげたものでした。

そして日中は読書、夜はアルバイトという生活を続けたのです。

「この子はすごい」

「お大師さんの移り変わりじゃ」

田舎者の両親は僕にそう言いましたし、言われる僕だってまんざらじゃありませんでした。

魔境


小池さんは懺悔の中で「魔境」に陥ったと言ってましたが、これはたしかに分かる気がします。

魔境って、なーに?

はい。魔境とはこういうものです。引用ドン!

魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「魂のインフレーション」と名づけられた状態だという指摘もある。

臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分はすごい人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。

引用元:Wikipedia「魔境」

バカの一つ覚えのようにずっとお経をあげつつ自分の体を追い込んでいると、恍惚境に至るのです。

なんかふわっとめまいみたいなのを起こして、

「あ、おれいま体が軽くなって宙に浮いた」

とか、

何やら変な光みたいなものがまぶたの裏に光り輝いて、

「これもしかしてお大師さんの”遍照金剛”の輝きちゃうん」

とか、

そういう気分になったりもするわけです。まあありがちですよね。

(本当に体が宙に浮いたり、遍照金剛の光に照らされた人がいたらごめんなさい)

 

野宿する場所が見つからない時の夕闇は怖い

 

あとこれは小池さんが音声の中で言われてましたが、

野宿する場所の見つからないことの焦燥と怖れ。

野宿経験者からすると、時計の針がお昼の12時、13時、14時とまわり、日が傾くにつれて、今夜の寝床が見つからないと、めちゃくちゃ焦る。

これは分かるなー。

なんせそこの住民からすると、どこの馬の骨か分からないやつがそこらへんで寝てたら、やですからね。

見てくれも浮浪者同様(というか、そもそも信仰心があるかないかの違いで、外見は浮浪者に違いない)ですからね。

さまざまな人々の冷酷な目線ほど辛いものはありません。

 

僕が仏道を辞めたのは、尖った生活では誰をも救えないと分かったから

とむらいマンは、22歳の時、家族を立て続けに失います。

1月。祖父が逝去。老衰。脳溢血。

2月。母が急死。急性心筋梗塞。

7月。父が倒れる。急性脳梗塞。一命をとりとめる。

9月。兄が死亡。自殺。

人間いつかは必ず死にますよ。

だから、たまたまタイミングが重なっただけなんよ。

…と、頭で言い聞かせる。

だけど心がついてこない。

死はとてつもない負のエネルギーを遺された者たちにもたらしますから、

その死が続くってのはいろいろな意味でダメージが大きく、やっぱりよくないんですよね。

山を走って滝に打たれて六根を清浄させる。

お経を読んで神仏に帰依する。

それらは大切なことかもしれません。

でも、それだけじゃだめなんですよね。

僕たちは人間界に生きているのだから、

やはり、人に向き合っていかないと幸せにはなれない。

それをね、

ズバンっと痛感させられた、家族たちの死によって。

 

「何のために毎日山走って、何のために毎日お経を上げてるの?」

「先祖供養のため、それが家族の幸せのためになるから」

「違うだろ。人見知りの引きこもりから逃げてるだけだろ」

 

こうした自問自答が僕を苦しめました。

祖父の老衰と、母の心筋梗塞はしょうがないとしても、

兄を自殺で失った。

そして脳梗塞に倒れた父をも、2年後、自殺で失った。

 

「お前の修行生活は、家族を救わなかったじゃねえか」

 

これには何も言い返すことができなかった。

同じ屋根の下で暮らすものの苦しみに気づくことなく、

なにが悟りだ、なにが解脱だ、ですよね。

僕は、生活者として生きていこうと決めました。

仏道生活の先に、自分の救いも、家族の救いも、ない。

というのが、当時の僕なりの結論だったのです。

 

「素朴に生きる」の意味 バカと天才の差とは

 

小池さんは、しきりに「素朴に生きる」と述べてますね。

相当、辛く、屈辱的な思いをしたのでしょうね。

素朴に、

家族と、ごくわずかな近しい人と、

コンパクトな生活を歩む。

いいんじゃないですかね。

まだまだ40歳。僕の3つ上。

またカムバックするかもしれないし、しないかもしれないし。

結局人間、何のために生きているのかってことですよ。

僕は、

 

バカと天才の差は

その能力を他人様のために使えるか

 

に、尽きると思う。

そのストイックさを、自分自身の修行の完成でもいいんだけど、

身の回りの、家族や、友人のために使えるか。

自分の行動や取り組みが、社会のためになっているか。

ってことなんじゃないでしょうか。

インドや南方の上座部仏教について詳しくないけれど、

個人の解脱よりも、利他の精神の方が、うん。しっくりくる。

どっちがいい悪いとか、もちろん言えないよ。

自分が聖人君子になって、八億四千万の人々に影響を与えるのと、

自分の家族とか、縁のある人たちを幸せにするのと

等価だと思うんすよ。

かつて父に逆らって、

真宗に逆らって破門された小池氏。

そんな彼が、父に謝りたいと述べているのだから、

己の恥が、さぞかし、骨身に沁みるだろうなあ。

まあ、それもまた、いいのではないでしょうか。

そのストイックなエネルギーを身の回りの人たちのために捧げる。

とても素晴らしいことだと思う。

 

自分を救うのは自分だけだ

 

もしも小池さんに信者、のような人がいたならば、

たしかに彼の行いは、信者に対して無責任かもしれない。

「オレは解脱するんだ!」

「おめーらを救ってやるんだ!」

そう言っておきながら、還俗宣言。

うん。罪深いかもしれないね。

しかし、もしも信者なる人たちがいるのなら、

小池氏の一挙手一投足に救いを求めていた人がいるならば、

僕はこう言いたい。

「自分を救うのは、自分だけだよ」

他人に甘えることなく、自力を磨いていきましょう。はい。

 

と、まあここまで小池氏の懺悔について、つらつら述べてきました。

小池氏が何者かも知らない僕が、いけしゃあしゃあと知った風に述べてきたことを、

僕はここで懺悔します(お前もかい!)。

人ってついつい、

自分が選ばれし人って、勘違いしがちなんですよね。

若かりし日の僕が、よく重なる(勝手に重ねてごめんなさい)。

でも、

賢くて、でもバカで、ストイックで、ビッグマウスで、誇大妄想で、メディアに持ち上げられて、

まあ、いいですやん。

「バカ」は矢印の向き変えたら「天才」になるし

きっと、この方、がんばったのだなあと、思う。

還俗。いいと思います。

俗に生きる。

もしも「悟り」があるならば、

人と人との間にしか、見つからないよ。

だってそれこそが、人間道。

 

とむらいマン

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