「喪主=施主」は現代葬儀の悲劇じゃないか。 葬儀は僕らの手の中に!

蕎麦食いてーよ!

蕎麦食べわせてつかぁさい!

 

こんにちは。とむらいマンです。

ツイッター上で「#結婚式に自由を」ってのが話題です。

んで、それに乗っかって、僕も前回こんなブログ書きました。

(『伝統的なしきたりをなんでもかんでも否定することを否定する』)

んで、まあ、ぼくはとむらいマンなので、

結婚式よりも葬儀の方が詳しいし、熱が入る。

だから今日は、葬儀目線で、前回の続き的なものを書いてみます。

#葬儀に自由を ってところです、はい。

 

本質は、絶対に変わってない

 

結婚式にしろ、葬儀にしろ、そんなの必要ないという意見は結構耳にします。

と言うか、

「大好きな人と結ばれたい」

「亡くなった人を弔いたい」

こういう想いの部分は本質として何ら変わらないのでしょうが、

それをしなければならないというような一種の社会的な強制力、

さらには、それをビジネスとしてやっていることに対しての商売っけ、

みたいなものに対して、

「結婚式いらねー」「葬儀いらねー」

こういう言葉があびせかけられてるんだと思うんです。

 

考えてみれば昔は結婚式や葬儀に専門業者なんてなかった。

 

考えてみれば昔は結婚式や葬儀に専門業者なんてなかった。

それは家族の行事であり地域の行事だったからです。

僕は結婚式には詳しくないけれど、

葬儀に関して言うならば、

喪主や遺族などの、最も故人の死を、悲しみ、乗り越えなければならない人というのがまずいて、

その人たちを支えるために、周りの人たちが葬儀を取り仕切ったと言います。

お寺さんの手配も、

祭壇を組むのも、

棺桶を作るのも、

墓穴を掘るのも、

炊き出しをして食べ物を作るのも、

みんな地域の人たちが分担して行ったのです。

だから本当に喪に服さなければならない人たちは供養に専念できたと言います。

すばらしい!

 

「喪主=施主」は現代葬儀の悲劇

 

今の時代、

 

喪主が施主をしなければならない。

 

これは現代葬儀の悲劇だと思います。

最も故人の死を悲しみ、乗り越えなければならない人が、

葬儀社の手配をして、

打ち合わせをして、

お寺や親戚に連絡をして、

参列者をもてなして、

挨拶の文章考えて、それをみんなの前で読み上げて

最後はお金の工面をしなければならない。

もうね・・・

 

負担ハンパない!

 

これはもう本当に悲劇ですよ。悲劇。

 

あふれる代行業者。では僕たちはなにをする?

 

社会が成熟する中で、いろんなものが専門家によって細分化され、

僕たちは自分でしなければならないことを色んなお店や会社にお任せするようになってます。

結婚式や葬儀も自分たちがするわけではなく専門業者に任せるし、

例えばクリーニング屋さんていうのは洗濯代行業だし、

保育園は育児代行業だし、

パスタ屋さんは料理代行業だし、

医食住にまつわることを僕たちは僕たちの手でしなくてもいい。

んで、代行の対価として、

お金を交換させるわけですね。

そんな世の中に慣れてしまっています。

そのことの是非は僕には分かりませんが、

少なくともその恩恵を受けてるだけでなく弊害が出ている面もあるんじゃないでしょうか。

本質を見失ってビジネスに突き進んでしまうというのは

ある意味しょうがない面もあるのかもしれない。

だって、お金が世の中の中心になっているから。

自分たちでできることも全部代行してあげて、その代わりにお金をいただく。

それがどんどんエキサイティングして過剰になっていって、

ここまでかってくらいの結婚式批判や(こんなの↓)

●キングコング西野さん『#結婚式に自由を

●キッチンイレブン北村さん

結婚式について思うことをまとめてみた。常識人を不機嫌にするblog。ごめんね。

さらには葬儀批判というのが出てきてるんだと思うんです。

経済とかお金の話になると

ぼく、頭が悪いのでうまく言えないかもしれないんですが、

岩井克人さんが、

「21世紀はお金の力がどんどん弱くなる」と言っていたように、

岩井克人『会社はこれからどうなるのか』 名著です!

 

あるいは落合陽一さんが、

拝金主義の限界を指摘しているように

落合陽一『日本再興戦略』 天才現る。現代の平賀源内!

 

お金を出して結婚式や葬儀のサービスをうけることに満足できなくなっているのかもしれません。

ただサービスを享受するだけでなく、

助け合って支えあって手作りの冠婚葬祭。

もろもろの手間暇や色々な人間関係とかめんどくさいこともあるでしょうが、

手作りには手作りの味わいってものがあります。

なんでもかんでも代行させて、

では僕たちは、

自分自身で何をしたいのでしょうか。

何をできるのでしょうか。

代行社会の果てに、なにがあるのでしょうか?

(※ちなみに、永代供養ってのは究極の代行業だと思ってます)

 

葬儀は僕らの手の中

 

ブルーハーツではないですが、

葬儀は僕らの手の中にあるべきなんですよ。

葬儀屋に言われるままの供養ではなくって、

自分たちが主体的に亡き人を供養する。

生きてる時に大変お世話になった人、

むかつくけど、こいつなしにはいられなかった人、

早く死んでくれてせいせいしたぜという人、

その人が、どんな人であっても、

死はなぜか、

その人を許せてしまう、1つの区切りみたいな所があります。

そんな亡き人への供養、

つまりは祈りだな。

これに対しての主体性が、

現代葬儀には決定的に欠けている。

手を合わすだけ、お金を包むだけが供養じゃなくて、

みんなで祭壇作る、

墓の穴掘る、

おにぎり作り

芋をたく、

柩を墓場まで運ぶ、

こういうのって、すべて供養の一環なのだと思う。

故人の死、その葬儀に

なんらかの形で、主体的に関わり合ってるじゃないですか。

そういう関わりの中で、

僕たちはなんとなく自分自身の中に

死生観を醸成させてきたのではないでしょうか。

全てを前近代に戻すことは不可能だし、それはそれでナンセンスだと思うけど、

昔もあって今もあるものや、

いつの時代でも大切とされているもの、

その中に込められた本質を見抜かないといけない。

きっとそこに、

私たち人間を幸せにするとても大事な何かが隠されているからです。

 

とむらいマン

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