佐々井秀嶺師、小野龍光さんとの出会い。
そして、素心姫路店で行われた『小野龍光トークライブ』
90日間のできごと、玉川の心の変遷の記録です。
2023年6月10日。ご縁は突然生まれました。
小野龍光さんのおおまかな来歴
小野龍光なる人物をご存じだろうか。
「前世」の名前は小野裕史。『NEWS PICKS』のインタビュー記事に、龍光さんの経歴が書かれているので引用。
2022年8月までライブ配信アプリ「17LIVE(イチナナ)」のグローバルCEOを務め、過去にはベンチャーキャピタル「インフィニティ・ベンチャーズ」を創業。
投資業のほか、地元密着型掲示板「ジモティー」や共同購入型クーポンサイト「グルーポン」を立ち上げに関わり、起業家としても年商100億超の事業を世に送り出すなど、華々しい経歴を持つ。
NEWS PICKS【小野龍光】年商100億超のIT起業家は、なぜ突然「出家」したのか
ビジネスでライジングした小野裕史さん。2022年8月に「17LIVE」のCEOを退任。そして2か月後。インドにて出家。そのあたりの経緯については、ぜひともYouTubeチャンネル「JQクエスト」を観てほしい。
YouTubeチャンネル「JQクエスト」↓
約10分の動画が33本。ご縁があるかたはぜひとも、第1話から観てみてほしい。『水曜どうでしょう』を観る感覚で、エンタメとして完成されている。
しかもこの番組、エンタメにはとどまらず、インド仏教最高指導者である佐々井秀嶺師との出会い、そこから見えるインド貧困層の悲しさとひたむきさと美しさ、さらには仏教史が大きく変わるかもしれないと言われている大事業「南天鉄塔」の遺跡発掘の現場にまで足を踏み入れる。これを、まるで「水どう」の鈴井&大泉には負けない友情と勢いで前に突き進んでいく。まさに少年漫画のノリ。
そしてこの旅の中で、小野裕史は死に、小野龍光が生まれる。しかもこれがとってもカジュアルに。その瞬間も、エンタメとして、ドキュメンタリーとして、きちんと捉えているので、龍光さんのことやインドの最前線を知りたい方は必見だ。
その後、帰国してからはさまざまなメディアに出演。玉川はこのあたりで龍光さんのことを知ることとなる。
●文春オンライン。『佐々井秀嶺、インドに笑う』の著者である白石あずささんによるインタビュー↓
●YouTubeチャンネル『ReHacQ』。成田悠輔さんとの対談↓
「いやあ。すごい人がいるもんだなあ」。この頃の玉川の抱いた印象は、この程度のものだった。
佐々井秀嶺、岡山に来たれり!
2023年6月10日土曜日。今朝も会社に出勤すべく、ぼくは7時58分発の姫路駅行のバスの中。スマホでTwitterを開くと、インド仏教最高指導者として、仏教復興運動を現地で率い続ける佐々井秀嶺師が、6月24日と25日と、京都にて連日の講演会とのこと。
「そうなんだ。佐々井さん、日本に来てるんだな」
ちなみに、佐々井さんの歩みが分かる密着動画、小林三旅『インド仏教の頂点に立つ男 佐々井秀嶺 2004年』がおススメ!
定員はそれぞれ330名と60名。「講演会、申し込もうかな、どうしようかな~」などとGoogleカレンダーを見ていると、両日とも予定が入っている。「なんとか調整できないかな~」と考えながら、Twitterから南天会(佐々井さんの活動をサポートする会)のHPへと何気にアクセスしてみたらなんと…
「6月10日(土)岡山 長泉寺必生不動明王祈願祭」
今日じゃん…。しかも…
「10:00~16:00 自由面会」
自由?面会?どういうこと?
バスを降りて、すぐに岡山の長泉寺に電話。
「あの~すみません。今日、佐々井秀嶺さんがそちらにおられるというのを見たのですが…」
「はい。そうですよ」
「自由面会って書いてあるんですけど、お会いできるんですか?」
「ええ、はい、まあ。ご本人がおられる時間帯であれば…」
「たくさんの方が来られるのですか?」
「こればかりは、ちょっと今の段階では分からないですね」
「失礼ですが、大きなお寺なのですか?」
「いえ、まあ、街中にある普通の大きさのお寺だと思いますよ」
イケる!会える!話せる! そう確信した。
今日は午前中から納骨が1件ある。これを終えて岡山まで車を走らせると約1時間。16時までには、間に合う!スマホを開いて6時間後には、あの佐々井秀嶺に会えるのだ。この機会を逃さない手はない。
会って、何を話すべきなのか、自分でもよく分からない。でもこの状況にはご縁をバチバチ感じていた。会うべくして会えってことなんだろうなと。なので、頭ではあんまりあれこれ考えず、とにかく、心の赴くまま、動くことにした。
会社にはなんて言おうかな~。これだけが懸念だったが、なんといっても相手はあの佐々井秀嶺である。しかも御年88歳。この機会を逃すともう二度と会えないかもしれない。
「あの佐々井秀嶺さんですよ!」と伝えてみても、佐々井さんを知らない多くの社員は、あまりピンと来てない様子。「いつか必ず記事にするので、まずはご縁つなぎをしておかなきゃ」などと取材ということにした(実際に取材なのだが)。記事にできるかどうかなんて、分かりっこないけど、でも、とにかくご縁はバチバチに感じていた。
ということで、午前中の仕事を終え、岡山へ。すると目の前には、あの、佐々井秀嶺さんがおられる。
おそらく佐々井さんの話は終わっていたのだろう。参加者がひとりずつ、佐々井さんの前に正座し、悩みを語り、それに応える。まさに、「佐々井秀嶺一問一答」が行われていた。
「職場の人間関係がいやだ」
「親の介護が辛い」
「世界で行われている戦争がいたたまれない」
「生き方に悩んでいる」
「妻子がいるのに、病気で苦しんでいる」
みんな思い思いの悩み、苦しみを打ち明け、それらひとつひとつに全力で応えていく佐々井さん。相談者の目をじっと見て、しっかりと声を受け止め、そして答え、祈る。一人当たりの時間は3~5分か。そのすべてが、おごそかで、チャーミングだったのが印象深い。
そんな光景を見て、ぼくはハタと困った。
「オレ、悩みごと、ないなあ」
絞りだしても、ひねり出しても、ない。いやあるよ。そりゃ日常的な悩み、苦しみ、迷いはたっくさんある。でもそれらのほとんどは「求めるから苦しい」という仏教の基本的なところから発しているということを、普段の仕事の中でのたくさんのお坊さんとのご縁からなんとなく分かっているので、ある種自分の中で問題解決できていた。
「でも、この場の雰囲気は、お悩み相談だよな~」
悩みのない自分ごときが佐々井さんの時間を割いてもいいものだろうかと考えて、なんとか悩みを探すのだが、やっぱりことばが出て来ない。でも、岡山までわざわざ来て、佐々井さんにご挨拶しないなんて、もっとありえない。
あなたが本を書きなさい
ということで、とりあえず、列に並んだ。そしていよいよぼくの番。深々と礼拝。そして合掌。
見上げる佐々井さんの目は、まあなんともキラキラしている。厳しさとやさしさがひとつになった眼光が、まっすぐぼくを捉え、緊張が走り、でもあたたかさに包まれる。なんとも不思議な気分。
これがオーラというやつか?いままで出会ったお坊さんたち、ごめんなさい。これまででもっとも力強いオーラを感じさせてくれたのは、佐々井さんだった。
「きみは、どうした?」
どうした? んー、とりあえず、ひとつ場を和ませたい。なぜかぼくは、そう思った。
「実は私、いま勤務中で、でも佐々井さんが岡山に来られるということを知り、会社を抜け出してきました」
ドッと会場が湧いた。佐々井さんも破顔。「それは、会社的にはよくないけど、仏教的には正しいな。アッハッハー」と、なんともお茶目に笑う。
あとは、いま自分が感じていることを、何も考えずにただお伝えするだけだ。それだけでいいと、開き直れた。
「実は、本当に申し訳ないのですが、私、悩みがないんです」
「ほお、すごいじゃないか」佐々井さんの目がキラキラしている。
「なくはないのですが、でも、いまがものすごく充実していて、ありがたいことです」
「きみは、何の仕事をしているのだね?」
「仏壇屋さんに勤めているのですが、モノ書きもしてまして」
「ほお」
「仏壇屋さんの中に、メディア事業部というものを立ち上げて、取材記事やインタビュー記事を通じて、仏教やお仏壇のよさをお伝えする取り組みをしています」
「それは素晴らしい!どうしてそういうことを思いついたのだね?」
「若い時に家族を立て続けに亡くしたのですが、その時にお葬式や、法事や、お坊さんといった日本の弔い文化に救われて、これを伝えたいという衝動だけで生きています」
「とても素晴らしい。仏壇は大事だ。私はたくさん本を読むが、仏壇について書かれた本はあるのかね?」
仏壇について書かれた本? はたと考えた。
よくよく考えてみると、仏壇について書かれた本を、よく知らない。いや、あるのかもしれないが、ぼくは知らない。ぼくが知らないということは、少なくとも「国民的仏壇本」はこの国にはないなあ、なんてことを考えて、気づいたらこんなことを口走っていた。
「仏壇について書かれた本があるかないかは、よく分からないので、私が書きます!」
佐々井さんの目が、よりキラキラ輝いた。数十人のまなざしに熱が帯びているのも背中で感じる。そして、ここからの佐々井さんのことばが凄かった。
「そうかそうか。じゃあ、あなたが本を書きなさい。ここにはたくさんの人がいる。この人たちの力を借りて、この人たちのために本を書きなさい」
これは衝撃だった。というのも「だれかの力を借りて本を書く」という発想が、僕にはなかったのだ。
文章を書くというのは、基本的には一人で行う作業だ。漫画や映画と違って、共同作業をあんまり伴わない。もちろん、インタビュイーや、編集者や、僕を支えてくれる妻や家族を含めると、「ひとりで行う作業」ではないのだが、佐々井さんはのっけから「みんなの力を借りて、みんなのために事をなせ」と言ってきたのだ。
ここに佐々井秀嶺の真骨頂を見た。この考え方があるから、インドの民衆を率いることができているのだ。金言をいただいたぼくは、もうひとつ調子に乗った。
「実は、悩みがないと言ったものの、ひとつだけ悩みがありました」
「なんだよ、お前~」という感じの佐々井さんの苦笑い。
「佐々井さんをインタビューをしたいのですが、いつどこですべきか分からないのです。どうすればいいでしょうか?」
佐々井さんをぜひとも『こころね』でインタビューしたい。そんな欲がむくむく湧き上がってきたのだが、それに対する佐々井さんの返しもまた、さすがだった。
「アッハッハー。じゃあ、インドに来なさい。インドに来たら、いつでも話を聴いてあげるよ」
龍光さんの微笑
この光景を、佐々井さんのそばでずっと見守ってくれていたのが、あの、小野龍光である。長泉寺の本堂に入った時に、すぐにぼくの目に飛び込んできた。
「あっ!あの小野龍光さんだ!」
まさか佐々井さんに随行しているとは知らなかった。これはすごい!同時にふたりのすごい人と会えるだなんて。
ビジネスでライジングされて、頂点の光景を知っているはずの方だ。なのに、龍光さんはとにかく腰が低い。佐々井さんの横で、ただの一人の弟子として、ちょこんと座っている。しかも、終始おだやかな笑みをたたえて。相談者と佐々井さんのやり取りを「うんうん」と、丁寧に頷きながら聴く姿がなんとも印象的だった。
イベント終了後、僕は名刺を持って龍光さんのもとに歩み寄った。
「龍光さん。メディアなどで拝見しておりました。お会いできて光栄です」
「これはこれは、ありがとうございます」
「佐々井上人のインタビュー、難しいですよね?」
「そうですね。国内での予定はいっぱいいっぱいに詰まっていまして、体調面でも負担をかけてはなりませんので…」
そりゃそうだ。いきなりこんな弱小メディアからのオファーだと、さすがに無理だろう(今思うと、こちらの情熱をお伝えし、都合が合いさえすれば、きっと佐々井さんは取材に応えて下さったと思う。そういう方だ、きっと)。
「でも…」と、僕は食い下がらなかった。このご縁を、ここで終わりにしたくない。
「龍光さんのお話は、いかがですか?」
「私ですか? 私ごときの人間の話がお役に立つのであれば…。ただ、バンテージ(佐々井さんの敬称)が来日中は、ずっとお供をしておりまして、時間がなくて…」
「リモートでも構いません。龍光さんのご都合に合わせます」
「じゃあ、バンテージがインドに戻られて、私も住まいのオーストラリアに戻った時でよければ、お話させていただきます」
かくして、龍光さんとのご縁がつながった。
そしてこの90日後、龍光さんは、私の無茶な提案を快諾してくれた。9月10日、素心姫路店で行われたトークライブは大盛況のうちに終わったのだ。
6月10日から9月10日までの、玉川の心理的葛藤とそこから得たものを、綴っていこうかなあと思います。次回に続きます。
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