※この記事は、死生観ラジオ『『親鸞-生涯と名宝』(前編)戒を超えて、真実に生きる。仏教を民主化させた親鸞の生涯と思想』をもとにテキスト化したものです。
死生観ラジオ。
この番組では、死生観について深く知りたい考えたいと思うあなたのために、その入口に立つきっかけとなる情報や物語をお届けいたします。
ナビゲーターは、葬儀社、仏壇店、墓石店の会社員をしながら、フリーライターとして活動する玉川将人です。
今回のテーマは、親鸞聖人生誕850年特別展『親鸞ー生涯と名宝』です。
親鸞が後世に与えた影響
親鸞は、日本仏教の一宗派、浄土真宗と呼ばれる宗派を開いたお坊さんです。
日本を代表する宗教家で、後世に絶大な影響を与えているという点では、トップクラスの仏教者ではないでしょうか。
親鸞の教えを広めるためにでき上がったのが、浄土真宗という教団です。
歴史的に見ると、室町や戦国時代、全国各地で戦国武将同士が争いますが、実はこの浄土真宗も一大勢力を築いて、戦国大名たちと対峙します。
「一向一揆」という言葉の、「一向」とは浄土真宗のこと、「一揆」とはその民衆たちの集まりのこと。浄土真宗を信じる者たちが集まってできた集団が戦国大名と同じぐらいの力を持ったということです。
代表的なのが、加賀の一向一揆。また、織田信長と大阪の石山本願寺を巡って戦った「石山合戦」というものもあります。
あの織田信長ですら恐れた一大勢力を築き上げるぐらいに、親鸞の教えは、ものすごい求心力を持っていたということです。
現代においても親鸞に影響を受けた人は数知れません。
作家の司馬遼太郎さんや五木寛之さん。思想家の吉本隆明さんやコピーライターの糸井重里さんは親鸞ファンを公言してます。
さらに若い世代だと、コメンテーターで実業家の若新雄純さんは真宗山元派から得度し、僧侶の資格を得ています。国内最大のクラウドファンディング「キャンプファイヤー」を創業した家入一真さんも、いろんなメディアで親鸞から多大な影響を受けていると語っています。
2023年は、親鸞生誕850年
2023年(令和5年)は、親鸞が誕生して850年の記念すべき年です。
現在、浄土真宗は10の宗派に分かれていますが、それぞれの本山寺院や日本中の末寺で、この記念の年をお祝いする法要が行われています。
これに加えて、京都国立博物館では、親鸞聖人生誕850年特別展『親鸞-生涯と名宝』が開催され、たくさんの人で賑わってます。玉川も行ってきましたが、ものすごく充実した展覧会でした。
しかもこの玉川、親鸞展を担当された京都国立博物館の研究員・上杉智英氏に話を伺い、ロングインタビュー記事を書かせていただきました。
そんなこともあり、この親鸞展に対して思い入れが強く、その辺も交えながら、親鸞の生涯をご紹介し、親鸞の教えが、現代を生きる私たちにどのようなものをもたらせてくれるのかについてお話をいたします。
前編では、主に親鸞がどういう生涯を歩んだのか。
後編では、親鸞展の見どころ、現代を生きる私たちが親鸞の生き方から何を得られるのか、私たちがどのように死生観を持てるのか、などについて考えてみたいと思います。
【誕生】幼少期からハードモード
生まれたのは1173年。平安末期です。
お父さんは日野有礼(ひのありのり)という藤原系の貴族で、お母さんは清和源氏の流れをくむ吉光女と呼ばれる方です。幼名は松若丸。
平安末期から鎌倉時代、世相はひどく荒れます。
仏教的には、親鸞が生まれる100年近く前、1052年から「末法の時代」に突入すると考えらえれていました。
つまりお釈迦様が説いた素晴らしい教えが、世の中に届かなくなる時期に突入するわけです。
実際にこのころ、社会不安も増大します。
親鸞が生まれる17年前の1156年に「保元の乱」が起きて、朝廷内が分裂します。
さらに3年後の1159年に起きた「平治の乱」が起きて、源氏と平家が争い、勝者となった平清盛の全盛の時代が訪れます。
それはつまり、貴族社会から武家社会へと世の中が大きくシフトしていくことを意味します。
加えて大飢饉が発生し、京都の街中が荒廃して、めちゃくちゃ人が死んだそうです。
そんな時代に親鸞は生まれるわけです。
4歳でお父さんを亡くし、8歳でお母さんを亡くした親鸞。目の前に立ちはだかるのはまさにハードモードの人生でした。
【出家】苦悩の日々
9歳の時に、叔父の日野範綱(ひののりつな)に連れられて、京都の青蓮院というお寺に入って得度します。ここから20年間、親鸞は天台宗の僧侶として、比叡山で厳しい修行を積みます。
比叡山で親鸞は「常行堂」というお堂にいたと言われてます。
ここでは「常行三昧」という修行が行われますが、これがめちゃくちゃ過酷らしい。
90日を1クールとして、飲食やトイレなどの時間以外は、基本的にはお堂の中にいて、お堂の真ん中に安置された阿弥陀如来の仏像のまわりを、延々歩き続けて念仏を唱え続ける苦行らしいのです。
このような修行を続けて、阿弥陀如来への信仰を研ぎ澄ましていくのですが、親鸞自身は、自身の浅ましい心を突き付けられるばかりだったそうです。つまり、自分の中から出てくる煩悩を消し去ることができなかったのです。
また、この時代の比叡山は、僧侶の養成大学のような場所でした。
当時の僧侶は国から認められた「官僧」で、いわばその国が認めた国家公務員のような位置付けでしたから、どうしても、世俗の政治権力と結びつかざるを得ない。
すると比叡山の中でも権力争いが生じたり、僧兵(武装した僧侶)が横行を働いていたとも言われてます。
親鸞は、自身の内面の問題と、世俗化した比叡山という環境への絶望から、20年もの長い期間修行に励んだ場所ではあったものの、比叡山と決別をして、そして自ら山を降りるという決断をします。
【夢告】聖徳太子による夢のお告げ
比叡山を下りた行った後、親鸞は聖徳太子が建てたとされる六角堂に100日間こもったらしいです。そして95日目の明け方に、夢の中に聖徳太子が現れます。
聖徳太子は、救世観音の化身とされ、夢の中で親鸞に対してこのように告げました。
修行者よ(親鸞のこと)、あなたが前世の因縁によって、仮に女性と交わったとしても、私が妻となりましょう。そして、清らかな生涯を全うし、命が終わるとき、必ずあなたを極楽浄土に導きましょう。
この夢のお告げには、2つの救済の意味があります。
ひとつは、親鸞自身の内面の救済です。
お坊さんは、戒(僧侶が守るべき決まりごと)に従って、女性との交わりや結婚を禁じられてました。
しかし聖徳太子は、夢のお告げの中で、女性と交わるなどの僧侶が守るべき「戒」を破ったとしても、仏さまはあなたを見捨てませんよ、ということを言っています。
これは、比叡山でどれだけ修行を積んでも煩悩を拭い去ることができずに苦しん親鸞にとって、大きな救済でした。
そしてもう一つ、これは親鸞自身の問題にとどまらず、当時の一般の民衆も仏さまの救いの対象であることを意味したわけです。
一般民衆の多くは結婚をしています。肉や魚を食べ、お酒を飲みます。つまり出家していない身分の一般民衆は、修行者が守るべき「戒」というものを、犯しまくっている。
でもそんな一般民衆ですら、仏様を信じて念仏を唱えたら極楽浄土に往生できることを保証したわけです。
これが親鸞にとっての転機でした。この夢のお告げを教えとして説く人を探して出会ったのが、のちの浄土宗の開祖となる法然です。
【師匠】法然との出会い
法然はもう既に、京都の中では評判の僧侶でした。
法然も親鸞と同様、幼い頃に父を亡くし、早くから比叡山に登って修行を積むものの、やはり比叡山を下りて、自らが信じる教えを布教します。
京都の吉水という場所に小さな庵を建てて、念仏だけで救われるという「専修念仏」の教えを説いていました。
法然による新しい教えは京都中に知れ渡り、公家や貴族、農民や貧民、さまざまな属性の人たちが法然のもとを訪れたと言われてます。
若き日の親鸞もそのうちの1人で、やがて法然に弟子入りして、そして高弟になっていきます。
【弾圧】旧勢力からの弾圧~流罪
法然が説く「専修念仏」の教えは、貴族や公家の中に信奉する者がいた一方で、比叡山や興福寺など、既存の仏教勢力からは大変危険なものとみなされ、ムーブメントとなった法然を抑え込もうします。
朝廷に掛け合って最終的には弾圧を受けることになります。法然は四国に、親鸞は越後に流罪となり、法然の弟子数名は死罪にさせられます。
このとき、ただ流罪になるだけではなくて、国から官僧としての資格を剥奪されます。
しかし、ここでの親鸞のスタンスが、彼独自のユニークで稀有な思想を生み出します。
【破戒】非僧非俗を宣言し、親鸞と名乗る
このとき、親鸞は自らのことを、「非僧非俗」だとしました。
「僧侶の資格を剥奪されたのだから、私は僧侶じゃない。しかし、仏道を求めて生きるものだから、俗人でもない」ということです。
多分おそらく今までこんな価値観、立ち位置で生きてきた僧侶っていなかったと思われますが、親鸞独自の立ち位置、親鸞独自の思想がここで生まれるわけです。
そしてこれまでは「範宴」や「綽空」などの僧名を授かっていましたが、ここで自らを「愚禿釋親鸞」という名乗ります。
「愚禿」というのは愚かなハゲ(=髪を剃った僧侶)を意味します。
そして、
「釋」は釋尊(お釈迦様のこと)から、
「親」はインドに実際にいた高僧・天親から、
「鸞」中国の高僧・曇鸞から、
…それぞれ一字ずつをとって名付けました。
【晩年】関東~京都 晩年は執筆や布教に専念
流罪は、約4年で解かれます。
その後、親鸞は新潟の越後に約3年住み続けた後に、京都に戻るのではなく関東地方に向かい、ここで約20年間、布教活動や執筆活動に励み、60歳頃になって再度京都に戻ります。
京都に戻った理由はいくつか説があります。
- 大著『教行信証』の執筆のため
- 鎌倉幕府から出ていた念仏禁止令を避けるため
- 純粋に晩年を終え過ごしたかったから
そして90歳で亡くなるまで、ありとあらゆる著作を残します。当時の世の中で90歳まで生きるというのがすごいことですが、本当に精力的に、経典の勉強をし、弟子たちに手紙を送るなど、この辺りの親鸞自筆のものは、親鸞展でも見られます。
また、最晩年の84歳の時には、息子・善鸞と親子の縁を断つという悲劇にも見舞われます。親鸞の教えと異なることを流布して弟子たちを混乱に陥れた自分の息子を、断腸の想いで勘当します。善鸞に送られた義絶状も、親鸞展で見ることができます。
【逝去】90歳で示寂とその後
1262年。満89歳(行年90)。親鸞はその生涯を閉じます。
親鸞自身は、生前に「俺のことは埋葬するな。火葬にして鴨川の魚の餌にしてくれ」と言ったそうです。
でも実際に弟子たちはそんなことはできません。自分たちが慕ってきた大切な宗祖を、丁寧に火葬をして、遺骨は石製の傘塔婆の下に埋葬されました。
その10年後、娘の覚信尼が、関東にいる弟子たちと協力して六角堂を建立します。これを大谷廟堂と呼び、親鸞の遺骨が祀られることとなります。大谷廟堂やがて本願寺となり、大きく大きく発展して、今に至るということです。
親鸞の魅力① 仏教の民主化
これまで貴族向けだった仏教を、親鸞は大衆に広く開かれるものにしました。
真言宗の空海や天台宗の最澄らの仏教を、よく鎮護国家のための仏教と言いますが、親鸞は、庶民でもわかりやすく、誰もが救われる教えを説いた。これは大きな功績だと思います。
親鸞の魅力② とことん自分の向き合う
20年間比叡山に行って、そこからドロップアウトするのもすごいこと。
当時の官僧って本当にエリート中のエリート。20年も比叡山にいれば、うまくやって出世街道を登ることもできたし、現に周りの僧侶たちの中にもそういう人はいっぱいいたと思いますが、親鸞は自らその環境をかなぐり捨てて、山を下りたわけです。
組織に生きるサラリーマンの私としては、その生きざまにちょっと考えさせられるものがあります。
また、今までの仏教は、国のための鎮護国家、庶民のため社会福祉的な仏教だったりしましたが、親鸞は、「自分が救われたい」「自分が救われるにはどうしたらいいのか」という具合に、とことん「自分」というものに向き合ってきた人です。
これも、近代以降、つまり個人主義が当たり前の時代の僕らに重なるところがある。
「自分らしさ」や「個性を大事にしようぜ」みたいな言説が当たり前に言われる世の中に生きる僕たちにとって、親鸞の苦悩や教えが、改めて僕たちにヒントをくれるんじゃないかなという風にも思います。
親鸞の魅力③ 僧侶像のイノベーション
「非僧非俗」という独自のスタンスがすごい。
「僧侶でも俗人でもない。そのどっちでもないけど、俺は俺」という、何者にもとらわれない、概念で自分をくくらない、このスタンス、生き方はイノベーションと言ってもいいと思います。
これまでの常識をひっくり返してますし、新たな価値を創造しているというふうにも言えるのではないでしょうか。
親鸞の魅力④ 仏と出会うことで生きやすくなる
そして、何と言っても欠かせないのが、自身の限界に気づいた上で出会った阿弥陀如来という絶対的な存在。
阿弥陀仏に身を委ねることの尊さを教えてくれました。
親鸞は、「生きる」じゃなくて「生かされる」、「救われる」じゃなくて「もう既に救われている」と説いています。
そうした自身の人生や死後の問題、苦しみを、すべて阿弥陀如来に、その信心で託すことによって、自分がこの世をどう生きるのかということに集中できる効果があると思います。
真実を追い求めた結果として戒を破っていた
親鸞がどうしてここまで「自分」にこだわりぬいてきたのか、それは今の私では分かりません。
親鸞展の主担当・上杉智英氏も「分からない」と語っておられました。
親鸞は「破戒僧」です。でも、戒を破りたくて破ったのではなく、自分に正直に、愚直に、真実に生きた結果として、戒を破っていたとのだと思うのです。
「戒を破る」と書くと、どうしてもネガティブな印象が拭い去れない。だからインタビュー記事のタイトルを
「戒を越えて、真実に生きる」
という風にさせていただいたんです。
何かそういう非常にスケールの大きさ、そして純粋な真面目さ、愚直さというものが、親鸞という男の魅力ではないかなと、思います。
後編へ
後編では、
- この親鸞展がなぜ史上最大なのかということ
- 今を生きる僕らが親鸞から何を学べるか
- 南無阿弥陀仏という6文字の言葉のすごさ
について語ります。後編もどうぞお楽しみいただければなと思います。
エンディング
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お相手は玉川将人でした。次回もどうぞ、お楽しみください。
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