ぼくの声はユニゾン | ぼくの声はユニゾン#1

ぼくの声はユニゾン

あなたは、「あー」と声を発すると、耳からどんな声を聴きとるだろうか。

それは、毎日、ごく自然に耳から入ってくる、あなたの「あー」に違いない。

あなたの家族の「あー」と、友人の「あー」と、同僚の「あー」と、推しの「あー」と、あなたの「あー」とでは、あきらかに声の質に違いがある。

あなたの「あー」は、間違いなくこの世界でただひとつの、あなただけの「あー」なのであって、あなたの耳は、それを上手に聴き分けている。それはまったく正しいし、ぼくはそのことを理解している。

じゃあ、ぼくの場合はどうかと言うと、ぼくもあなたと同じで、ぼくの発する「あー」は、ぼくの「あー」に違いない。ぼくの家族や、友人や、同僚や、推しの「あー」とはあきらかに異なる、この世界でただひとつの、ぼくだけの「あー」だ。

ただ、ひとつだけ違うかもしれないことがあるならば、「ぼくの声はユニゾンだ」っていうこと。

ユニゾンとは、複数の声部が、同じ旋律を同じ音程で、合奏や合唱をすること。

あなたの声はあなただけのもの。ぼくの声もぼくだけのもの。

だけどぼくの声はユニゾン。複数の人間の声が、重層的に響き渡っている。

さて、あなたの声は、ユニゾンだろうか。そして、あなたの耳は、ぼくの声をユニゾンとして聴き取るだろうか。いやきっと、ぼく単体の声として、ソロとして、聴き取るはずだ。うん、それはとっても自然なことで、そのことを、ぼくはきちんと理解できる。

ぼくは決して、パフュームでもAKBでもない。ユニットを組んでユニゾンを歌っているわけでもない、ただひとりのぼくだ。

じゃあ一体、だれがぼくの声と、同じ音程で、同じ抑揚で、同じ速度で、同じリズムで、同じ口調で、同じ台詞を重ねているのかという疑問が生まれるはずだね。

ぼくにとって、その正体はとてもシンプルで、「亡き人たち」ということになる。

亡き人たちのゆくえ

「人は死んだらどこに行くのだろう」
「亡きあの人はいま、どこで、なにをしているのだろう」

太古の時代から現代まで、人類は同じことを考えてはさまざまな物語を編み続けている。地獄も天国も、穢土も浄土も、輪廻転生もアニミズムも、この地球上のあらゆる死後観は、ぼくたち人類の死後に向けられた感性を言語化し、謎めいた死というものを物語化したものだと思う。

古今東西、あらゆる人たちが人間の死後の行き先が分からずに、何千年、何万年も懊悩しながら、言語化、物語化に努めているというのに、ぼくはと言うと、大切な人を失ったその瞬間に、その人の行方がすぐに分かってしまった。

先に結論を伝えるよ。亡き母が、ぼくの中に入り込んできたんだ。亡くなって、すぐに。

ぼくが22歳の冬。母は53歳という若さで、突然他界した。

昨日まで元気だったのに、ひどく腰を痛めたようで、寒い冬の日の朝、浴槽に熱い湯をためて、腰をあたためようとしたのがいけなかった。ヒートショックで血圧が大きく伸縮し、急性心筋梗塞で、風呂におぼれた。

当時京都に住んでいたぼく。急いで新幹線に飛び乗ったぼくは、京都駅から見える五重塔に、母が大好きだった弘法大師の御宝号「南無大師遍照金剛」を唱え続けた。

その時のぼくは妙に冷静で、母の回復を祈るのではなく、自然界の大きな流れのようなものに身を任せる感覚だった。悲しみと戸惑いが間違いなくぼくをうろたえさせていたものの、母の突然死という事実に抗うのではなく、すでに受け入れ態勢に入っていた。

母の推しだった弘法大師に、「これから自分に押し寄せてくる母亡き世界の荒波をうまく乗り越えていくために、どうか力を貸して下さい」と、応援を求めていたような感覚だった。

「悲しいけれど、寂しくない」

この表現が、もっともしっくり来る。淋しくないのだ。なぜなら、亡くなった母は、もうすでにぼくの中に入り込んできているのだから。

パニックの父。ひどく落ち込む長男。努めて冷静にいようとする次男。血を分けた家族であっても、母の突然死という事実の受け止め方はそれぞれ異なった。家族の中でいちばん若いぼくも、悲しくてわんわん泣いた。でも、寂しくなかった。

この身体の中に母が一緒にいる。その感覚が、通夜の時からぼくのことをあたたかく包み込んでくれている。だから、寂しくない。

その半年後に、長男(ぼくの兄)が亡くなり、2年後に父が亡くなり、さらに2年後に祖母が亡くなり、わが家では、不幸が続いた。
でも、これらのどの死別も、母の時とおなじで、悲しかったけど、寂しくなかった。なぜなら、彼らもみんな、すぐにぼくの中に入り込んできてくれたからだ。

亡き人とともにいることのおもしろさ

ぼくの声はユニゾン。

あなたはぼくのこのことばを、信じてくれるだろうか。それとも嘲笑するだろうか。

あれから20年。この感覚はいまも変わらず、ぼくの中にありつづけている。

ぼくの発する声は、ぼくの母の、父の、兄の、祖父母の、さらにはそこから連なるたっくさんのご先祖さまの声が重なりあっている。

ぼくはいまこうして、万博公園下のスターバックスで、パソコンに向かってキーボードを打ち付けてことばを綴っているわけだけど、この指先にだって、彼らの存在を感じている。

たいせつな家族を立て続けに亡くし、でもそのことがぼくに生きる軸を与えてくれた。やがてぼくは、葬儀社、仏壇店、墓石店と、弔いの現場で生き続けることを決めて、いまに至っている。

不謹慎かもしれない。でも、正直に言うならば、先祖や死者とともにいることの多幸感ったら、ないのだ。

ぼくの身体の中では、いつもにぎやかに、声にはならない声で、ことばにはならないことばで、家族や先祖たちが、時に仲良く笑いあい、時にイライラけんかしてる。

ぼくの喜びは亡き人たちの喜びだし、亡き人たちの怒りはぼくの怒りだし、ぼくが先祖なのか、先祖がぼくなのか、もうよく分からないし、どっちだって構わない。

一緒にいるという感覚、ユニゾンに聞こえるこの声こそが、ぼくを力強く生かしてくれているのだ。

これから、こんなユニゾンなぼくのあれこれを綴っていこうと思う。

亡き人とともに生きることのおもしろさが、あなたにも伝われば、いいな。

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