いま、ここ、自分。瞑想がぼくらにもたらせてくれるもの|ぼくの声はユニゾン#14

前回の記事では、ユヴァル・ノア・ハラリさんによる『21Lessons』の最終章が「瞑想」であることの意義を力説しました。

その続編として、瞑想がどんなに心地よく、ぼくらに何をもたらすのか、そんなお話をしようと思います。

ぼくの瞑想

ぼくは毎朝、日が昇る前、近所の神社にお参りし、その奥の森の中で瞑想をしています。

まずはお社にお参り。そして、境内の奥、森の中の磐座にお参りします。鳥居の目の前がいい感じで平らになってて、ここがぼくの瞑想スペース。

まずはぼくの瞑想スタイル。いわゆるヴィパッサナー瞑想です(多分)。

足は半跏趺坐。膝の上に手のひらを乗せて、上向きに開く。姿勢を正して、上あごに舌をつけて、長く息を吐きだし、空気を吸い込む。この呼吸を、ゆっくりと、延々と、続けてます。これがまあ、気持ちいい。あとはポカーンとするだけ。時間はたぶん、10~20分程度。ハラリさんのように毎日2時間なんてできません。

次に、瞑想している時のぼくの感覚についてです。

【視覚】
夜明け前の森。薄暗がりの中で目を半分瞑る。
【聴覚】
風の音、鈴虫の奏でる音、鹿の鳴き声。
【嗅覚】
きれいな空気を吸い込む。
【味覚】
舌の先からゆっくりと息を吐きだす。
【触覚】
肌に感じる痒み、足の上を伝う蟻や虫たち。
【意識】
いろんな雑念や考えが浮かんでは消えて、また浮かぶ。

瞑想をすることで、五感と意識(思考・言語)がフラットに開放されます。ちなみにこれらを仏教では「六根」と呼び、まさに六根を清めている感じ(六根清浄)がします。

瞑想がもたらすもの

瞑想は、さまざまなものをもたらします。

頭の中がスッキリ

とにかく、頭の中がスッキリします。

ぼくがお世話になっている禅の和尚は、いつもこう言います。

お寺は心のお風呂屋さん。坐禅で、心に溜まった垢を洗い流して下さい

ぼくはこの表現がとっても好きで、しっくり来ている。

「坐禅をしたら何が得られる?」
「瞑想のベネフィットは?」

そんなの本当にどうでもよく、四の五の言わずに坐ればいいんです。気持ちいいから。

お風呂やサウナに入るのに理屈がないのと同じで、瞑想も、とにかく心地いいからする、そんな感じでよいのではないでしょうか。

自分のコンディションが分かる

毎朝、同じ時間、場所、姿勢で瞑想をすることで、その瞬間のコンディションが分かります。

「あ、今日はしっかり坐れているぞ」
「お、今日は心がすがすがしいぞ」
「ん?なんか今日は心身ともにざわざわしているぞ」

…という感じ。

また、

「金勘定ばかりしてしまう」
「イヤなあいつのことばかり思い出してしまう」
「エロいことばかり考えてまう」

こういう雑念を観察することで、今自分が何にとらわれているのかが分かります。

いま、ここ、自分。

暗闇の中、すべて感覚器官を均等に開いて、呼吸にだけ集中する。

そうしていると、時間と空間の感覚が吹っ飛び、過去や未来にとらわれることなく、いまここにいる自分に集中できます。

昨日あったイヤなこと、今日これから起こりうる不安、といったような、いま目の前にない、つまり実体のない執着や不安から自分を解き放つことができる。

この感覚は、かなり心地がよいものです。

過去は「過ぎ去ったもの」、未来は「未だ来ずもの」と書きますが、実体のないものに心が捉われることなく、いま、ここにいる自分に集中することで、生きていることのリアル感がぐんと増します。

現実逃避でなく、現実との接触

ハラリさんは、『21Lessons』の中で次のように書いています。

瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ。(P403)

ぼくたちは、社会情勢も、明日の天気も、株価指数も、目の前の人の心の中も、なにも分かりません。

同じように、自分についても、分かっているようで何にも分かっちゃいない。

いかに自分が雑念だらけか、呼吸が乱れているか。普段全く捉え捉えきれていない自分という現実に、瞑想をすることで気づけるのなら、瞑想って現実逃避どころか、現実に向き合う行為そのものと言えるのではないでしょうか。

ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』(河出書房新社:2019年)

自然と自分が融け合う

森の中に坐っていると、この森が、岩、木、土、鳥、虫、動物たち、さらには頭上に輝く月や星、雲や空などというたくさんの生き物たちで構成されていることに気づきます。

そして自然と自分が融け合い、ぼく自身もその構成員のひとつであることを体感できます。

もしもぼくが自然と一体となったなら、虫たちは岩を伝うようにぼくの膝を伝うでしょう。ヘビは土を這うようにぼくの身体を這うでしょう。

シカや、イノシシや、クマだって、岩や木と同じように、ぼくのことを見るでしょう。

自我を鎮め、自然と一体になるとは、きっとそういうことなのだと思います。

光合成をする植物と同じように、ただただ呼吸に集中する。気づくと自然と一体となっているその瞬間が、めちゃくちゃ心地いいのです。

もちろん、いまのぼくの瞑想レベルはまだまだ低いので、虫や動物たちが現れることで「うわ!怖いっ!」と、強烈な自我が発動してしまうでしょう。

この自我に反応して、彼らがたちまちぼくのことを襲ってきませんようにと、ただただ祈りながら、坐っているのが実情です。

瞑想で何かを求めることの野暮ったさ

ここまで、ぼくなりに、瞑想で得られるもの、もたらされるものをまとめてみました。素人の独学の瞑想体験なので、どうか参考程度までにしてほしいです。

ただ、ぼく自身「瞑想で何かを得よう」という感覚はあんまりなく、むしろそういうものを求める瞑想は野暮ったいとすら感じています。

どこかの何かのメディアで、ドイツ出身の禅僧・ネルケ無法さんが、こんなことを言ってました。

マインドフルネスは本末転倒だ。何かを得るための瞑想だなんてありえない

世界中で、禅、瞑想、マインドフルネスが流行しているそうですが、集中力アップ、生産性アップを求めることを、ネルケさんは批判しているのです。

なぜなら、「求めることで苦しみが生まれる」というのが、お釈迦さまの教えの一丁目一番地だからです。

ぼくがここに挙げた瞑想体験は、あくまで結果として得られた感覚であり、これらを目的に坐っているわけではありません。

ただただ心地いいから。身体と心と魂が多幸感に満たされるから。ほんと、これに尽きます。

いま、ここ、自分。そしてユニゾン

瞑想は古代から行われてきた精神修養の実践法の一つです。

長く続いてきたものにはそれだけの実績があると思うので、心が疲れた人、元気が出ない人、瞑想を試してみてもはいかがでしょうか。

とはいえ、心の癒し方、元気の出し方、さらには自分の見つめ方や現実の捉え方はほかにもたくさんあるので、数ある方法のひとつくらいに思えばいいでしょう。

ぼくの場合、瞑想をすることで、時間や空間の感覚が吹っ飛んで、いま、ここにいる自分に集中できます。

そして、ぼくにとっての「自分」とは、死者たちとユニゾンの「自分」です。

亡き父、母、兄、祖父母、ご先祖さまと一体になった自分。そんな自分が、自然や動物たちと融け合い、ユニゾンになっていく。

世界や宇宙がぼくらの外に大きく広がっているのと同じくらいに、自分というひとりの人間の奥深くにも、こんなにも壮大で深淵な世界や宇宙が広がっているということを、あなたにも知ってもらいたいと思いつつ、今日のコラムを終えようと思います。

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