震災から7年 僕たちはどこから「僕たち」なのだろうか

あの震災で、僕の生活は何一つ変わらなかった。

僕は、震災とどう向き合えばいいのだろう。

 

こんにちは。とむらいマンです。

いま、深夜の2時37分。

記事脱稿して、いつもならもう眠るのですが、

今夜は絶対に、これを書くのだと、PCに向かってます。

冷蔵庫漁っても、酒ないし、

料理用の安っいワイン飲みながらですわ、はい。

 

西日本に住んでいる僕にとっての東日本大震災

 

こんなことをツイートしたのはいつだ?

3日前だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

被災地に幽霊が出るっていう話。

僕はこれを他人事だと思えなかった。

だって、西日本に住む僕にも、幽霊出るんだもん。

だから、畑中さんのこの記事は、とっても読み応えがあったのです。

 

「私は死んだのですか?」東北被災地で幽霊が出現した意味(畑中章宏ー現代ビジネス)

 

 

 

東日本大震災は、まぎれもない「国難」です。

東北の人も、関西の人も、同じ日本という国家の民ですから、

この「国難」は等しく共有されるべきものですが、

実際は、そうではないですよね。

わたし、震災の前年に東京を離れました。

そして関西のある町のあるお宅で、震災のニュースを見ました。

地震は恐ろしく、津波は衝撃だったし、放射能は得体が知れませんでした。

でも、それも、これも、

全部テレビの視覚イメージや、ネットにあふれる言葉からの情報だったのですよ。

西日本に住む多くの人たちは、

もっと的確な言葉で言うならば、

震災によって生活をおびやかされなかった多くの日本人は、

この震災に、なにを思ったのだろうか。

いまでもそう考えます。

国やマスコミは、

これは国を挙げての大参事なのだ。

挙国一致なのだ。

そのようにリードしてましたね。

だけど、正直なところ

「僕たちも東北の人たちと一緒だ!」

と、声高に叫ぶのも、なんか気が退けたし、

なによりも失礼だ、という感情がぬぐいきれない。

だって、僕たちはぬくぬくと、昨日と変わらず今日を生きているのだから。

そして逆に、

「僕たちは東北の人たちと違うぞ!」と言えるわけがない。

僕たちは決して優越に浸りたいわけではない。

だけど、自分たちの生活が、やっぱり第一なんです。

これが本当に、正直なところ。

・・・では、ないでしょうか?

 

2.5人称の死

 

フランスの哲学者のジャンケレヴィッチは、死を3つに分類しました。

 

1人称の死(私の死)

2人称の死(あなたの死)

3人称の死(彼の死)

 

1人称とは、自分自身のこと。

自分の死は、死ぬ瞬間まで体験することができません。

 

2人称とは「あなた」のこと。

自分とつながりあっていた人との死別はこちらに大きなダメージを与えます。

近親者や友人の死は、私たちの生活や精神をおびやかすことすらあります。

 

3人称とは「彼」「彼ら」のこと。

ニュースから流れてくる情報としての死のほとんどは、これに分類されます。

 

東日本大震災は、ニュースとしてはあまりにも衝撃の大きい「死」だったのです。

3人称よりは、もっと私に迫って来る2.5人称。

でも、東北に友達や親戚がいるわけでもない。

同じ「日本人」として括って、東北の人たちと俺たちは同じだ! とも言えなかったな。

なんかが、違う。

上から与えられたアイデンティティでは割り切れないものが、どうしても、あるんです。

 

僕たちは、僕たちの

 

 

 

・・・・・

 

 

だめだ!

何書いていいのか分からない。

 

 

眠いからとかじゃない。目は冴えている。

酔っぱらっているからとかじゃない。甘すぎて、全然ワイン飲んでいない。

 

僕は、

自分が幸せでいたい。

次に僕とつながりのある、周りの「あなた」たちを幸せにしたい。

そして、直接つながりはないけど、この世界を同じ時間に生きている多くの「彼ら」に幸せであってほしい。

 

どれだけ寄り添えるか。

どれだけ自分事にできるか。

というのは、その人称を、すこしでも「1」に近づけることなのではないか。

3人称より、2.9人称。

2.9より、2.8…という感じで。

僕たちは、きっと

いつまでたっても、他者にはなれない。

だって、僕は、僕の人生を生きているのだから。

でも、他者への想像力を張り巡らすことで、

3人称は2人称へ、

2人称は1人称へ、

少しでも近づく。

 

僕はとむらいマンだから、

いろんな弔いに寄り添いたい。

自分の大事な人の弔いにも、

あなたにとって大事な弔いにも。

 

東北では多くの人が亡くなった。

でもそれは、東北だけのことではなく、

日本中、世界中のこと。

死は、等しくいつでもどこでも誰にでも訪れるし、

死別も、等しくいつでもどこでも誰にでも訪れる。

そんな、死や死別に、

僕たちは否応にも向き合っていかなければならない。

それが、弔い。

いつまでも、いつまでも、弔っていたいし、

弔うためには、生き続けなければならない。

死んだら、弔うことすらできなくなる。

 

今日で、東日本大震災から七年です。

震災で亡くなった人のご冥福を心から祈り、

いまも被災地での生活を余儀なくされている人、

震災の体験に未だ苦しんでいる人の、

やがて必ず来る幸せを祈ります。

 

脈絡ないブログ。

これで終わります。

ほんとうに、脈絡なくて、ごめんなさい。

 

最後に・・・

 

 

生きていこう!

生きている限り、語ることができるから!

 

とむらいマン

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