新しくなった原爆資料館をこの世界の片隅から想う

原爆の被害は

やけどや爆風だけではない

 

こんにちは。とむらいマンです。

今日は、令和元年8月6日。

令和になって初めての原爆慰霊の日です。

約何十年ぶりでしょうか。数日前に、小学生以来の、原爆資料館(正式には広島平和祈念資料館)に赴いたのです。

そして、産経新聞に気になる記事があったので、

「ああ、おんなじこと感じている人いっぱいいるんだ」と思い、

ブログにしました。

 

産経新聞「遺品が物語る「あの日」広島原爆資料館改装 実物展示に重点」

 

原爆資料館は今年2019年の4月25日にリニューアルオープン。

さまざまな面で改葬されたそうなのですが、

いわゆる、あの、蝋人形がなくなっていたんです。

 

 

子どもながらに強烈に覚えていたのが、あの被爆時を再現した蝋人形。

僕の中では、「原爆資料館=蝋人形」でしたから。

それ以外ははっきり思い出せないというくらいに強烈なインパクトを小学生の僕に残していた。きっとこれは僕だけでない、多くの人たちの共通認識ではなかろうか。

しかし、実際には、「現実とは乖離している」という否定的な意見もあったようですね。

あと、この蝋人形は、どうしてもお化け屋敷的な怖さを助長するというか、そういう側面はあったと思います(まあそれだけインパクトは絶大だったのだけれど)。

新しくなった資料館では、遺品の陳列と、その背景にある個々人の物語(ストーリー)に、ものすごく注力していたのが印象的だった。

原爆の悲惨さや、死者数などでは測れない、

あの日、広島の町にいたすべての人には、日常があり、物語があり、想いがあった。

「N家の崩壊」や、佐々木禎子さんの話など、本当に胸が苦しい。

そうした物語を丁寧に汲み取ろうとする姿勢(これはまさにこうの文史さんの『この世界の片隅に』の姿勢につながる)には誠実さを感じ、僕は大変好感を持ったのだけれど、

インパクトには少しかけた印象があったのも、事実。

資料館側の苦悩と模索が感じられた。

(※ヤフコメには否定的な意見が多かったなー)

いずれにせよ、戦争なんて、原爆なんて、本当にダメです。

改めて、そう想う。

そんなことは、あたりまえだ。

ではなぜ、戦争や、原爆がこの地球上からなくならないのか。

そこにぶち当たったとき、個人として僕には何ができるのかと、

その世界の巨大さに、呆然としてしまうのです。

と、同時に、

この世界の片隅で、輝けることの大切さを、

そのコントラストの美しさを、改めて感じ入るのでした。

 

原作も、アニメ映画も、コトリンゴさんも、まじで名作です。

 

今日は令和元年8月6日。

原爆に被災された方に、心よりご冥福を御祈り申し上げます。

合掌。

 

とむらいマン

 

追伸

 

この写真は原爆投下から約3ヶ月。

墓石だけが整然と立ち並んでいるのに目がとまった。

 

 

人々が、

「墓石だけは」と復旧したのか。

それとも、墓石だけは原爆の爆風にもびくともしなかったのか。

いずれにせよ、墓石好きの僕には、

石の可能性を感じずにはいられなかったのです。

自分たちが悲惨であるにも関わらず、死者を弔おうとする人間の心理。

その光景に、手を合わせずにはいられない。

合掌。

 

とむらいマン。

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