「葬儀の香典に新札はダメ。では法事の時は?」を本質論から考える

しわくちゃのお金を包んで渡すというのは

それはそれで結構失礼なことではないでしょうか?

 

こんにちは。とむらいマンです。

友人からこんな質問を受けました。

葬儀の時に包む香典は、新札を使ってはダメというマナーがあるけれど、じゃあ法事の時はどうなすればいいの?」

これは、葬儀の時になぜ新札がダメなのか、と言うマナーの本質を考えればわかることです。

今日はこのへんを、グググッとひも解いていきますね。

 

【復習】葬儀の香典に新札はなぜダメなの?

 

というかそもそも、みなさん。

葬儀の時に包む香典は新札を使ってはダメ

…というマナー、ご存知でした?

葬儀というのはいつ起こるかわからないものです。

新札を用意できずに、使い古しの紙幣で香典を包む、という行いの中に、

「急な事で新札を用意できなかった=故人の死を考えすらしていなかった」

という、遺族へのさりげない思いやりが込められているのです。

なかなか日本人らしい

良く言えば細やかな、

悪く言えばめんどくさい

…そんなしきたりだと思います。

このマナーの本質を考えれば、

法事のお香典をどうすればいいのかなんて、

すぐに分かりますよね?

 

【本題】法事の香典は新札で構わない!

 

これ、正解って、きっとありません。

でも、とむらいマンは、こう考えます。

 

法事の香典は、新札で構わない!

 

なぜか?

葬儀はいつ起こるかわかりません。

では法事はどうですか?

法事というのは、大体いつ執り行われるか事前にわかります。

2日前にいきなり

「あさって法事だから来て!」

という人がいるならば、そっちのマナーを疑います。

法事の日程は事前に分かる。

ということは、きれいな紙幣を用意する時間的余裕があるはずです。

汚いものと、きれいなものを、贈り物にはどちらを選ぶべきですか…?

 

 

・・・・・・・

ですよね〜。

なので、法事の香典にはきれいな新札を贈るべきでしょう。

 

しかし最近では、

と言うか世の中のマナー全般によくあることなのですが、

この本質が抜け落ちて形式だけが一人歩きすることがよくありますね。

たとえばこのブログの話の場合でも、

「御祝儀は新札!」

「不祝儀は旧札!」

と固定化して考える人が多くいます。

でもよく考えて頂きたいんですがね、

しわくちゃのお金を包んで渡すというのは

それはそれで結構失礼なことではないでしょうか。

だから、「お祝いだから新札」「仏事や法事だから旧札」

こういう使い分けはいかがなもんかなと個人的に思うわけです。

思考停止して、しきたりだけを鵜呑みにするんじゃなくて、

その奥の意味を、きちんと考えていきたいものです。

 

そもそも法事は悲しいものなのか?

 

そもそもですよ、

葬儀は悲しみの儀式かもしれませんが、

 

法事は本当にそうなのか?

 

という大前提をひっくり返す問題があって、

あながちこれは的外れではないんです。

というのもですね、

実際中国では一周忌のことを小祥忌、三回忌のことを大祥忌と呼んでおり

この「祥」という言葉に、法事の本質が込められてると思ってます。

ちなみに「祥」は辞書でこう書かれてますよ。

 

しょう
〗 () ショウ(シヤウ) ジョウ(ジヤウ)
  1. 1.
    めでたいこと。喜ぶべきこと。さいわい。

     「嘉祥(かしょう)・吉祥(きちじょう)・多祥・不祥」

  2. 2.
    めでたいことのさきぶれ、きざし。

     「祥瑞(しょうずい)・祥気・兆祥・発祥」

 

法事は、亡き人との別れを、時間をかけて乗り越えていくための儀式です。

ですから残された人たちが少しでも幸せになり、少しでも明るく生きて行けられるようになるための儀式です。

もちろんネガティブな面もありますよ。故人を偲ぶわけだから。

さすがに法事で紅白の祝儀袋というのは相手を怒らせるでしょう(笑)

だけど、法事というのは親族が集まって、

「おれたちはひとりじゃないぞ、つながってるんだぞ」

という再確認の場ですし、

僕は法事は、死者を介したポジティブな儀式だと確信してます。

ちなみにちなみに、

芥川賞作家の僧侶・玄侑宗久さんが、めちゃめちゃ分かりやすいこと書いてるので、引用!

 

一周忌のことを、仏門では「小祥忌」と呼ぶ。亡くなって一年経つころには、同じ季節が巡ってくるため、喪失感がひときわ強くなる。そんな時に法要をすることで大きな区切りをつけ、今後は「めでたい」方向に歩みだそうと誓うのが「小祥忌」という儀式である。

「祥」という字は不思議な文字で、もともとは「わざわい」を意味した。だからこそ「羊」という生け贄(いけにえ)を祭壇(示、ネ)に供え、神に祈るのである。「羊」は現代風に言えば、故人亡きあとに捧げられる遺族それぞれの奮闘努力のことか。我が身を「羊」として捧げるべく奮闘し、それによって「わざわい」が「さいわい」に転じたため、後に「祥」という文字そのものの意味が「さいわい」に転じたのである。

玄侑宗久「小祥忌『わざわい』から踏み出す一歩」

マナーやしきたりの奥にある本質を見つめよう!

 

マナーとかしきたりには、必ず意味や本質というものが込められてます。

そこには相手への気遣いや気配りや心配りなど、

人間関係が円滑に行き、この社会が少しでも幸せな方に近づけるよう作られています。

その本質が抜け落ちて

形式やしきたりばかりが重視される風潮はよくありません。

大事なのは金額でもないし、

その紙幣がきれいか汚いよりもまず先に、

お香典に込められた贈る側の想いが相手に届き、その想いが遺族の気持ちにきちんと寄り添えるかどうかではないでしょうか。

そうはいっても

「法事で新札を包むとは何事じゃい!」

と悪く受け取ってしまう人もいるでしょう。

そんな時は新札に少しだけ折り目をつけて渡しましょう

そうしとけば、それでマナーを守ったことになるそうです。ちゃんちゃん。

 

とむらいマン

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