集客は他人に頼っちゃダメ!
こんにちは。とむらいマンです。
「とむらいさん。僕、名刺持って営業に回ろうと思うんです」
「どこにですか?」
「いや、葬儀屋さんに」
僕は、きっぱりと、「やめておいた方がいいですよ」と言いました。
誰にそう言ったのでしょうか。
はい、そうです。お坊さんです。お寺の副住職にそうお伝えしました。
葬儀社にアゴで使われるお坊さんの現実
副住職ということは、未来の住職です。
そのお寺を維持していかなければなりません。
先行きを考えた時に、やっぱり少しでも新たな収入の柱を立てておきたいと考えるその気持ちは、分かります。
ちなみに、その副住職のお寺は過疎の村にあり、檀家件数も減少している、
これは、日本中のどこのお寺も抱えている悩みですよね。それにぶち当たっているのですね。
「集客を他人に頼ってはダメですよ。自力で集客しなきゃ」
僕はこう言いましたが、それがいかに大変かも、よく分かってます。
でも、葬儀屋さんに使われるお寺も、悲惨なのです。
「いついつ、葬儀来れる?」
「いや、その日は法事が入ってまして…」
「そうかそうか。そしたらもう2度とおたくには仕事お願いできんけど、それでもいいんか?」
こんなリアルな現場、この業界にいたら何度も見聞きしています。
儀礼の導師。死後観の語り部たるお坊さんの、悲しい現実です。
葬儀社の血のにじむような企業努力
ただ、これ、なにも葬儀社を一方的にディスってるわけではありません。
わたしも葬儀社勤務してたからよく分かるのですが、
葬儀社は葬儀社で、必死です。
寝る間も惜しみ、休みも潰し、喪主と遺族のために骨折って、変死現場にも踏み入るし、ゴミ屋敷の中を匍匐前進しながら腐乱死体を引きずり出すし…(全部マジです)。
その上で、あれやこれやと、いかにしたら集客や売り上げを伸ばせるかと、日々格闘しているのです。ほんと、マジです。
いまの葬送の現場。主導権を握っているのは葬儀社です。
大事な家族を亡くした喪主は、まず葬儀社に電話します。
それは、一番頼れる存在ってことを意味します。
葬儀社は、葬儀社で、営利企業として、めちゃめちゃ努力してるんす(してないとこは潰れていくだけ)。
困った人が、まずは自分たちを思い出してくれるようにと、いろんな努力をしてるんです。
ちなみに葬儀社だって、集客を他人に頼ると悲惨なことになります。
「小さなお葬式」や「イオン」に頼っているところはなかなか大変なようです。
自力で集客問題は、どの業界でも同じですよね。
葬儀社を一方的にディスるのは、筋違いなのです。
それでもお寺にがんばってもらわなければならない理由
僕はとむらいマンですから、
この国が、この社会が、
もっと弔いに手厚く、熱い社会であればいいなと願ってやみません。
そのためには、やっぱりお寺に頑張ってもらわなくてはなりません。
なぜか。
なぜなら、お寺にしか死後観を語ることって、できないんです。
いやいや、キリスト教も神道も色んな宗教もありますが、
やっぱりこの国の死後観は、仏教のお家芸なんですよ。
葬儀社は、死者のこの世の旅立ちのお手伝いはできます。
でも、「その後」についてはノータッチなんです。
大事なのは、「その後」なんです。
葬儀を終えて、日常生活を取り戻していく中で、
いかに亡き人と向き合いながら、
その人のいない新たな世界を力強く生きていけるか。
弔いとはそういうことだし、葬儀はそのスタートでしかない。
この領域には、葬儀社は入り込めないんですよ。
だからこそ、そのスタートである葬儀の主導権を、お寺が握ってほしい。
檀家制度に甘えるんでなくて、
己の言葉で死生観や死後観を語り、
元気なうちから、檀家や信者とつながりあっておく。
いざという時に、「お世話になってるあのお寺さんに連絡しよう」
と思えるような関係構築。
マジ大事です。
そうした、「信頼」によるつながり。
よき死に方、よき送り方には、そういう流れが理想ですよ。
たとえば高橋卓志さんという人もいるし、
大愚元勝という人もいる。
自分の言葉で語るお坊さん。たくさんいます。
こうした著名の僧侶でなくても、
地域社会や檀家さんから信頼を得ているお寺もたくさんあります。
そうしたお寺が何によって惹きつけられるかって、
結局は「人」の力、その「語り」の力。
〇〇宗とか、檀家制度とか、格安葬儀とか、きれいな会館とか、
人はそんなものよりも、
誰かのたしかな導きの言葉、に救われます。
それができるのって、お寺しかないんですよ。
とむらいマン。
そのお手伝いに、邁進します。
さあて、何しようかな。
とりあえず、副住職!
また、飲みに行こう!
とむらいマン
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