泣いて笑って送り出す 葬儀は「緊張と緩和」でできている

 

しかしこういう妙な席での酒というのは不思議にうまい。

中島らも『寝ずの番』

 

こんちには。とむらいマンです。

普通、お葬式には「泣き」がつきもので、「笑い」は不謹慎ですよね。

そんな常識に異を唱えたツイートがありました。

 

 

マコなり社長は、日本最大級のエンジニアスクールを運営する株式会社divの社長。

Youtuberでもあり、チャンネル登録者数は36万人をも超えています(2020年1月13日現在)。私もチャンネル登録して、動画からいろいろ勉強させてもらっています。ビジネスマンは必見です。まじ、面白くてタメになります。

相当エッジの利いた方で、とにかく常識を疑ってかかり、本質を見つめる人です。アンチもきっと多いことでしょうが、本人はそんなこともおかまいなしです。

さて、このマコなり社長のツイートから、【なぜお葬式ではお坊さんをよんで「悲しんで涙を流す」が当たり前なのか】について考えてみましょう。

 

実際のお葬式の現場は、泣きと笑いがあふれている

とむらいマン。5年間ほど葬儀社に勤務していました。

たいへん多忙な葬儀社でしたので、5年間で担当したお葬式の数は約500件。

これだけのお葬式を見てきたので断言できるのですが、

お葬式には、泣きの部分と笑いの部分がある。

それはですね、言い換えると

セレモニーの部分と、非セレモニーの部分なんです。

そして、非セレモニーの部分の代表が、食事お通夜です。

ここでいう「お通夜」とは、「通夜式」というセレモニーのことではなく、

夜通し故人に寄り添うその時間のことです。

昔の人は、そして今の人も、

お通夜の夜はお線香を寝ずに番しながら、故人の思い出話にふけるものです。

酒が入り、寿司や煮しめなんかも出されて、こういう時のお酒って不思議に美味しいんですよね。

もちろん、お葬式にはさまざまな人間模様が映し出されます。

親族同士がいがみあって、しーーーーんとした葬儀もありますし、

故人が若い場合など、笑うことができない葬儀というのも、あります。

しかし、多くの場合、参列者たちや親族たちは、

セレモニーの間は、神妙な顔をして、故人との死別を悲しみ、遺族たちを慰めます。

しかし、その後の食事の席(「通夜ぶるまい」とか「お清め」とか言う)になると、

お酒も入り、久々にあった親戚同士、大笑いしているなんてこともザラです。

「わあーー、みっちゃん久しぶりー。いまどこ住んでんのー?」

「パラグアイに住んでて飛んで帰ってきたよ。なっちゃんも美人になったねー」

「んまあ、口が上手になったのは、どこで覚えたん?」

まあこんな近況報告をしたり、

「おじいちゃん、若い時はイケメンだったらしいよー」

「ねー。あんなブルドックみたいな顔なのにねー」

「おじいちゃん、いつも意地悪してきて、嫌いじゃったわー」

なんていう感じで、亡くなった人の思い出話にふけったり。

こういうのを、ご飯食べながら、酒飲みながら、

あはは、がははと笑いながら、語り合う。

葬儀の現場では、このような光景は日常茶飯事です。

 

人間は多面的な生き物 だからこそ葬儀は「緊張と緩和」でできている

喜怒哀楽という言葉がありますが、この中で陰性と陽性とをあえて分類するならば、

「喜」と「楽」は陽性で、「怒」と「哀」は、陰性です。

このように、人間というのはとても多面的な生き物です。

亡くなった人も多面的ならば、送り出す側も多面的。

死=悲しい! 葬儀=涙!

こう決めつけることはできないんですね。

だからこそ、日本の葬儀文化は、しめやかなセレモニーと、その緊張感からの解放としての食事で成り立っているとわたしは思う。

これって、まさに桂枝雀さんが言ってたところの「緊張と緩和」。

緊張の緩和するところに笑いが生まれるという理論。

緊張の緩和理論1

家族や知人の死という非日常は、残された人に大きな緊張を強います。

受け入れがたい死という事実。

これを受け止めるために、私たちは儀式を執り行うのですが、それはもう緊張の連続です。

緊張だけでは、人間生きていけません。だからこそ、緩和がいる。

マコなり社長のツイートで言うならば、

お坊さんをよんで「悲しんで涙を流す」→これが「緊張」

「アイツは最高に面白いやつだった」と笑顔でパーティーしてほしい→これが「緩和」

日本の葬儀の中には、この両方が含まれているんですね。

 

泣きや悲しみは、時間をかけて晴れていく

では、ここでマコなり社長の問題提起

なぜお葬式ではお坊さんをよんで「悲しんで涙を流す」が当たり前なのか】

という疑問に立ち戻ります。

「笑いだけでいいじゃん。なぜ「泣き」の部分がいるのか」

これはですね、

そもそも、人の死は「悲しみ」や「辛さ」といったマイナスの感情を引き起こすからです。

まあ、これ、考えたら当たり前のことで、

この世にいた人がいなくなるというのがそもそもマイナスな現象なわけで、そこにこそ普段とは違うという、違和感や非日常感が、緊張を生み出し、人間は本能的に「こわい」「苦しい」などを察知します。

ですから、それをむりやり明るい音楽や楽しい笑い声でひっくり返そうとすると、

これは逆効果。無理が出る。肉離れを起こしてしまいます。

まずは人々の「こわい」「苦しい」「悲しい」「辛い」などのマイナスな感情に寄り添うための儀式が求められます。

「アイツは最高に面白いやつだった」と笑顔の力がいるのは、そのあとなんです。

泣きや悲しみにまず寄り添い、時間をかけてそれを晴らしていく。

これが、葬儀から法事に連なる日本の弔い文化のシステムです。ほんと、うまくできている。

 

明るく送り出すお葬式のカタチ

 

わたしはマコなり社長の問題提起はとても正しく、素晴らしいものだと思っています。ちなみにこのツイートにはこんな続きがある。

葬儀は基本的には、マコなり社長が言うように

「よっしゃ!アイツの意思をついで、明日からもっとがんばるぞ!」

となるための儀式です。

ただしそこにはフェーズ(局面)というものがある。

亡くなった直後、ご遺体を前にして、

人々が馬鹿笑いして、ふざけてネタにできるか、ということです。

せめて、少し時間が経った後、四十九日くらいにこういうパーティーをするのがいいかもしれませんね。

わたしの大好きなミュージシャン・忌野清志郎さんの葬儀は、「青山ロックンロールショー」と銘打って行われましたが、

(こんなブログ書いてた「愛し合ってるかい? 忌野清志郎のロック葬で少し大人になった僕」)

やはり葬儀は家族だけで密葬にし、

後日、日を改めて、盛大に、バチーンと行いました。

ギャグ漫画家の大家・赤塚不二雄さんの葬儀にも参列しましたが(タモリさんの弔辞で有名ですよね)、

温かい「笑い」の要素の強い葬儀でしたが、やはりその中にも「泣き」はありました。

最近では、一般の人たちの中でも、

逝去後の葬儀は、まず家族だけで小規模で行って、

日を改めて、知人たちを招くパーティーをするという人が増えています。

人の死を受け止め乗り越えるための葬儀には、

「泣き」と「笑い」は常にセットとしてあります。

悲しみがあるから、笑いが引き立つし、

笑いがあるから、安心して悲しむことができる。

人間は必ず死にます。

それを無理なく乗り越えるための、人間の叡智が込められているなーと、マコなり社長のツイートに触れて改めて考えさせられました。

 

とむらいマン

 

追伸

葬儀を「緊張と緩和」の文脈で描いた傑作小説は中島らもさんの『寝ずの番』。

抱腹絶倒です。ぜひ!

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