伝統的なしきたりをなんでもかんでも否定することを否定する

どんなものでも、続いている、ということは

その中に意味や価値があるのです。

 

こんにちは。とむらいマンです。

冠婚葬祭の伝統的なマナーやしきたりにうんざり。

そういう人、結構多く見かけるのですが、

とむらいマンは、マナーやしきたりは、なかなかバカにできないと思ってます。

今日はそんなブログ記事です。

 

こんな結婚式、しないほうがいい

なんでそういうこと書くかというと、

まずはこちらのブログ(?)を読んでいただきたい。

クレイジーウェディングという会社の森山さんという人の問題提起。

読むのが面倒な人のために、簡単にまとめました。

 

大好きな人と結ばれる素敵な結婚式。

しかし、その準備があまりにも大変で、夫婦間の喧嘩も増えてきた。

誰を呼ぶか、席次、挨拶、費用、衣装、当日の段取り決め…

こんなのに疲弊するんなら、結婚式しないほうがいいんじゃないか。

 

…っていう問題提起ね。

 

しかしこれ、葬儀業界でも充分に考えられる話じゃないですか。

 

ここで問題にされているのは、

●相手の親との意見が合わない

●彼との喧嘩

●式の費用

●衣装をどうするか

●上司をどこまで呼ぶか

●当日の段取り決め

●席次の配置

●挨拶を誰に頼むか

・・・こうしたこまごまとした決め事にうんざりして、

お姉ちゃんは日々の仕事と結婚式の準備の両立で疲れきっている。

まあそらそうですな。

結婚式の準備で旦那さんと喧嘩になる始末ですから。

いつもより倍以上疲れることでしょう。

その上で、

 

こんな結婚式なら正直いらないと思う。

結婚式の会社として、この責任を自覚してほしい!

 

…と花嫁の妹に一喝された、という夢を見たのだそうだ(フィクションかい!)

んで、”みんなが本当に幸せな結婚式”について、

キンコン西野に相談するという流れ(西野かい!)

まあ、森山という人のネタなのでしょうが、

こうした形式ばったことに対する

「めんどくさい」「意味わかんない」

といったネガティブな反応は、葬儀でもよくあります。

「なんでお布施ってこんなに高いん?」

「信仰心ないのに」

「お経の意味が分からない」

でも、なんだかんだでみんな慣例に従って葬儀ってのをやってしまうんですね。

 

伝統的な形式は、本当に悪なのか?

 

さて、しきたりとか作法とかマナーとか慣例というような、

伝統的な形式って、そんなに悪いものなのでしょうか。

結婚式の準備をしてて旦那さんと喧嘩になるぐらいなら、

もう本当に、妹さんが言うように、

結婚式なんてしなきゃいいんですよ。

面倒くさいことでもあえて儀式をするということは、

そこにそれなりの意味があると思うんです。

それを会社のせいにするって、お門違いも甚だしい。

(※…と、フィクションに向かって腹を立ててしまうわたし)

 

席順に見る、結婚式と葬儀の本質の違い

 

例えば席順。

席順は、結婚式と葬儀では真反対です。

結婚式では、親族が一番後ろ。

葬儀では、親族が一番前。

結婚式っていうのは、いわば新郎と新婦のオノロケの披露なわけです。

だからリア充を見せつけられる招待客をきちんと立ててもてなすんですね。

「オノロケの私たちですが、これからもどうぞよろしく」

「オノロケの息子娘ですが、これからもどうぞよろしく」

…という感じじゃないですか。

言葉を変えるならば、親族たちは参列者に謙遜して、一番後ろに座るんです。

一方、葬儀は亡くなった人を悼み、遺された家族を励ます儀式ですよね。

喪に服す中心はあくまでも家族や親族ですから、彼らが一番前に座ります。

このように席順ひとつとっても、今ではそれが当たり前のルールとなってますが、

そこにはきちんとした”想い”や”気配り”のようなものが込められているというのが大前提としてあるわけです。

 

お祝儀やお香典も、礼服も喪服も、想いを目に見える形にしたもの

 

お祝儀やお香典。

これも、「余計な出費だなあ」と嘆く人もいるでしょう。

だけどもらった側というのは金額とかではなくてその気持ちが嬉しいものです。

だからしきたりとかマナーというのは、

まず前提として相手を祝うあるいは相手を悼む慰める、

そういった気配りや心配りという想いから始まっているという点において、馬鹿にするべきでないと思うんです。

たしかに、様々なことは本末転倒しがちです。

冠婚葬祭のしきたりとかマナーも、本質が抜け落ちて、

形式ばかりが優先されてしまう形骸化されたものをよく見ます。

喪服なんていうのも、喪に服しているというこちらの想いを、目に見える形にしたものですが、

「喪服がない」「汚れてて着れない」

「だから参列できない」

という人がいるのであれば、これは本末転倒です。

だって大事なのは葬儀場に駆けつけて、亡き人の顔を見て、手を合わせ、家族を慰めに行き、共に悲しみを共有することにほかならないからです。

喪服がなくたって、それだけの行動を取れば、その想いは遺族に伝わるはずですからね

 

本質を見落として、自己本位に陥るな!

 

その本質を見ることなく、楽で、安くて、便利な方法ばかりを選ぶ結婚式や葬儀は、自己本位に陥りがちでしょう。

家族葬なんて良い例で、火葬される前に手を合わせたくても家族や親族以外は参列どころか死の事実も知らされない。

これはある意味大問題なわけです。

だって葬儀の本質は、亡き人と遺されたものが最後に会うということ以外にないからです。

もちろん、家族葬が流行る社会的な変化は十分に分かるし、

それに応じて人々の暮らしや、冠婚葬祭の形も変化していくのは当然です。

ただ、なんでもかんでも古いものを否定して、

「アップデート」「アップデート」としきりに叫ぶのを、僕は好みません。

古くから続いている様式や、形式や、しきたりや、マナーたち。

その中に込められている本質をしっかりと捉えた上でアップデートしなきゃ、

本当につまらない中身のないものになってしまう。

でなければ、結婚式なんてそもそもしなきゃいいし、

結婚式の準備で旦那と喧嘩して仲が悪くなるぐらいなら、

初めから結婚なんてしなきゃいいんです。

 

みんなって誰?

 

最後にね、これもひとつ気になるんですが、

森山氏は、みんなが本当に幸せな結婚式ってのを考えたいんだそうです。

この「みんな」が誰なのか、ということです。

新郎新婦なのか、それとも親戚たちなのか、はたまた参列者たちなのか。

でも、この人たち、みんな置かれている立場が違いますよね。

そうすると、その人たちにとっての「幸せ」の定義も、あいまいになってきますよね。

だからこそ、共通認識としてのしきたりとかマナーがいるんです。

婚礼でネクタイは白、葬儀ではネクタイは黒。

参列者が同じ服装をすることで、その場にいるもの同士としての参加者意識みたいなのが働いて、

結婚式はよりおめでたく、

お葬式はよりしめやかになるものですよ。

そこで個性みたいなのを発揮するのは、もうこれナンセンス。

だから、「みんな」をどこに定義するかで、結婚式や葬儀のスタイルも変わるでしょうし、

「みんな」を過不足なく幸せにするために、満足してもらうために、

しきたりやマナーがあるんです。

 

ということで、友人のFacebookのアップに触発されてばばばばっと書いたけど、

ただ、なんでもかんでも古いものを否定して、「アップデート」「アップデート」としきりに叫ぶのを、僕は好みません。そして、本質はきちんと捉えようね。

ということを書き方かっただけです。

 

では、また!

 

とむらいマン

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