ぼくの中に死者は何人まで入れるのか|ぼくの声はユニゾン#6

先日とある取材をしている時に、逆質問を受けました。

「玉川さんの中にいる亡くなった方って、定員オーバーで溢れ出たりしないんですか?」

言われてみれば「なるほど」と考えさせられる質問だったので、そのアンサーをこのブログにしたためようと思います。

玉川は、何人までの死者を自分の中に取り込むことができるのでしょうか。

ぼくの中にいるたくさんの死者たち

「ぼくの中に死者は何人までは入れるのか」

「はあ? こいつ、何言ってんだ?」とお思いの方もいることでしょう。

まずはこちらの2つの記事を読んでみてほしい。それが面倒臭い方は、スルーしてスクロールして下さい。

ぼくの声はユニゾン | ぼくの声はユニゾン#1
ぼくの声はユニゾン あなたは、「あー」と声を発すると、耳からどんな声を聴きとるだろうか。 それは、毎日、ごく自然に耳から入ってくる、あなたの「あー」に違いない。 あなたの家族の「あー」と、友人の「あー」と、同僚の「あー」と、推read more...
ぼくが先祖で、先祖がぼく|ぼくの声はユニゾン#2
ユニゾン的身体感覚 ぼくの声はユニゾン。この感覚、あなたにも分かってもらえるかな。そのために、もう少し詳しくことばを連ねてみたいと思う。 ユニゾンというのは、あくまで便宜上の表現であって、重なっているのは声だけじゃない。 ぼくread more...

まずは簡単に、ぼくの死生観のようなものをまとめます。(詳しくは上の2記事に書いている)

  • 20代前半に立て続けに家族を失った。
  • 当時引きこもりだったぼくは、家族をひとり失うごとに生きる力を手に入れた。
  • 亡き家族が自分の中にいるんだということを、母の通夜の日に悟る。
  • 兄の時も父の時も同じ感覚を受ける。
  • ぼくの声はユニゾンに聞こえる(ぼくとぼくの中にいる死者の声はごちゃまぜ)
  • ぼくの幸せは死者の幸せ。ぼくの悲しみは死者の苦しみ。
  • 死者の笑顔はぼくの笑顔。死者のいらだちはぼくのいらだち。
  • ぼくと死者に境界はない。自他不二。無分別。

…と、まあ、めちゃくちゃ乱暴にまとめるとこんな感じです。

このようなぼくの死生観をそのインタビュイーさんに直接話したら、こんな素朴な疑問をいただきました。

「玉川さんの中にいる死者って、ご家族だけなんですか? 他人は入ってこないんですか?」

「ほお、なるほど」と思いました。そんなこと、意識すらしていなかったからです。

この問いのおかげで、自分を組成してくれている死者って、具体的に誰なんだろうと、よーく考えてみました。

ぼくの中にいるメインの死者は、祖父母、父母、兄などの血のつながった人たちです。

しかし、血のつながりこそないものの、ぼくとご縁のあった死者たちも、たくさんぼくの中にいて、ユニゾンを形成してくれているんです(これ、マジ)。

ぼくの中にいるたくさんの蝉たち

一番はじめに思いついたのが、蝉たちです。

蝉?

そう。あの、夏に飛び回る、無数の蝉たちです。

夏の季節、アスファルトの上で死んでしまっている蝉の死骸を見つけては、ぼくはその死骸を手のひらに乗せて、近くの土や草むらを探し、そこに横たえ、地蔵菩薩のご真言「オンカカカビサンマエイソワカ」を3度唱えます。わがやの夏の風物詩です。

「まじ!? なんでそんなことするんですか!?」

と、インタビュイーたちからはごく自然なリアクション。でもぼくは、心から「生き物は、大地から生まれて大地に還っていくべき」だと思っています。

アスファルト全盛の現代って、人間や蝉をはじめとする生き物すべてにとって、土に還ることのできないとても憂うべき世の中じゃないでしょうか。

土の中で7年かけて大きくなって、ブワーって土から飛び出して、ひと夏を謳歌して、鳴きまくって、飛び回って、なのに最後は土に還れず、アスファルトの上で干からびる。こんな悲しいことってありますか。

そんな蝉に「おまえ、ようがんばったな。おつかれさん」と声をかけながら土に還すことで、ぼくの中からも慈悲心が沸き上がり、それが多幸感につながるんです。

と、まあ、そんなお話をしました。

容れるものと容れられるものの境界がない

すると、インタビュイーさんから、さらに素朴な疑問。

イ「じゃあ、玉川さんの中には、蝉たちもいるんですか?」
玉「うん。いますね。たっくさん」
イ「ご家族に蝉に。ちなみに、それ以外の死者も、いるんですか?」
玉「うん。思い返すと、ぼくの人生の中でご縁のあった無数の死者たちが、ぼくの中にいますね。人間も、動物も、虫も。彼らみんなと一緒に生きている感じです」
イ「そうすると、玉川さんの中に入り込んだ死者たちがあまりに多くて、あふれ出たりとか、古いものから消えて行ったりとか、しないんですか?」

これは、むちゃくちゃいい質問だと思いました。なぜなら、ぼくのなかに、そんな発想はこれまでただの一度もなかったし、その質問が、ぼくの持つ感覚をより鮮明に浮き彫りにしてくれたからです。

興奮するインタビュイーさんは、箱をひとつ目の前に置き、質問を続けます。

イ「ここにひとつ、箱がありますやん」
玉「ありますね」
イ「んで、この中に水をドババババッと入れるとしますやん」
玉「はい、入れます」
イ「この箱が玉川さんだとして、何割までならOKとか、これ以上入れられちゃうと苦しいとか、ないんですか?」

インタビュイーさんは、ぼくの中の死者を質量を持った存在として捉えていたのです。ところがぼくの中の死者たちは、質量を伴っていないんです。

儒教の概念に「魂魄」というものがあります。「魂気」と「形魄」。分かりやすく「霊魂」と「肉体」と置き換えられます。

肉体には質量があるので、箱の中に詰め込められる量に限界があるのですが、霊魂はこの3次元の世界をひとつ超えたところで平気で行き交いしてて、ぼくの中では”無限”の感覚なんです。

だから、いまのぼくの中には、無限の死者がぼくの中にいて、さらに入り込める感じがしています。

イ「質量じゃないんですね」
玉「そう。質量じゃないんです」
イ「どういう肉体感覚なんですか」
玉「そうですね。”しみ込む”感じかな」
イ「しみ込む?」
玉「うん。しみ込む。しいて言うなら、質量は増えないけど、濃度が濃くなる感じかもしれませんね」

…というような回答をしました。

取材翌日、「こう答えておけば、分かりやすかっただろうな」という表現を思いつきました。

「箱で例えるなら、容れられる箱と、容れる中身の境界がないんですよ。容れ物も、容れられるものも、ぜんぶがぼくになる感じ」

…と、言えば分かりやすかったかな。スピリチュアルな感覚を言語化するのは、本当にむずかしい。

ぼくたちは、ひとつになりたい

さて、ぼくのこの肉体感覚をいろんな方に話すと、極度なスピ嫌いな人は眉間にしわを寄せるものの、多くの方は驚きと興味を持って話を聴いてくれます。

しかもその奥に、なんとなく”なつかしさ”を感じているような気がするんですよね。

「わたしはそんな経験したことないけど、なんとなく分かる気がする」

…という声を、いろんな方からいただいています。

なかなか言語化のむずかしい領域の話なので、ぼくも話す相手を選びます。でも、話した人のほとんどは、多大な関心を持ってくれるのが、うれしい。

きっと、死者とどうつながるかというのは、多くの人の関心事なのだと思います。

ちなみに、この感覚が、ぼく独自のオリジナルだなんて、思っていません。

なぜなら、たくさんの先人たちがこの感覚をすでに言語化してくれているし、”死者とともにある”という感覚は、世界中の宗教で見られるからです。

人類共通の嗜好なんです、きっと。

弘法大師空海のことば

有名なところで、弘法大師空海の、次の言葉あります。

六大は無碍にして、常に瑜伽なり

「六大」とは、この世界を構成する6つの要素、「地」「水」「火」「風」「空」「識」。

「無碍」とは、さえぎるものがない状態。

「瑜伽」とは、溶け合っているさま。「ヨガ」と同一のことばとも言われます。

はじめてこのことばに触れた時、ぼくの頭上から足の底までを稲妻が貫き、「これじゃん!」と叫んだのものです。

『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」

『新世紀エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウさん。彼の「人類補完計画」も、目指すのはきっとこの境地なわけです。

愛する妻・ユイを失ったゲンドウは、60億人の人類の意識を統合することで、妻との同一化を目指しました(セカイ系の極致!)。

ATフィールドなんかぶち壊して、みんながひとつの意識でつながる世界を、彼は求めたわけです。

しかもおもしろいのは、ミクロとマクロが合致しているところ。死別した夫婦の同一化と、別個にある人類60億人の統合を一緒くたにするところなんて、まさに真言密教の金剛界と胎蔵界を同一と捉える視座とそっくりですよね(金胎不二)。

儒教「身は、父母の遺体なり」

ぼくの座右の書は、加地伸行さんの『沈黙の宗教 儒教』です。

この中の一節が、22歳の時にぼくの身体の中で体験したことのすべてを集約してくれていました。

身は、父母の遺体なり

つまり、3千年前の中国人は、すでに儒教の宗教体系や思想をベースに「自分のこの身は父母の遺体によって組成されている」ということを、身体感覚として分かっていたわけです。

亡き父母が、ぼくの中に入りこんで、ともに生きている。

この感覚を、3千年も前に、この東アジアに生きた祖先も体感していたということは、ぼくにとって大きな心のよりどころとなりました。

「融ける」という絶妙な表現

ぼくたちはきっと、ひとつになることを望む生き物なんです。

気の合う仲間との時間、愛する人同士のセックス、国境や宗教を超えた人との友情などなど、日々の暮らしの中のさまざまな場面で、共感や一体感を得ることで、幸せを感じる生き物ですよね。

キリスト教の「三位一体」も、バラモン教の「梵我一如」も、仏教の「無分別」も、たぶんおんなじことなんじゃないでしょうか。

そして、この”ひとつになる”感覚を、「融ける」と表現した空海さん、ゲンドウさん、ほんとうにお見事です。

ぼくもそんな感じで、無数の死者たちが融け合って、ぼくの身体を組成しているんです。

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