歴史学者の、ユヴァル・ノア・ハラリさん。
ホモ・サピエンスの進化の歩みを示した『サピエンス全史』(2016年)と、そんなぼくたちサピエンスの未来について考察した『ホモ・デウス』(2018年)は世界的な大ベストセラーとなりました。多くの人々にとって衝撃を与えたこの2作に、ぼく自身も激しく動揺し、でもおもしろくて、サピエンスについて改めて考えさせられました。
その締めくくりとして刊行された三部作の三作目が、『21Lessons 21世紀の人類のための21の思考』(2019年)です。
前の2作でサピエンスの過去と未来を示したハラリさん。本作では、サピエンスが現在考えるべきこと、取り組むべきことについて書かれ、最後の最後でハラリさんが取り上げたのが「瞑想」でした。
数年前から月1回の坐禅会に参禅し、ここ最近は毎日の生活の中に瞑想を取り入れているぼくとしては、これだけ壮大で罪深いサピエンスの歴史と、ディストピアとしての未来を著述したハラリさんの最後の提言が瞑想であることに、ちょっとした驚きと大きな納得を感じたのでした。
※ぼくの瞑想はあくまで独学なので、素人の個人的な解釈としてこの記事を読んで頂ければ幸いです。
瞑想とは、ただ座ってポカーンとすること
瞑想と聞くと、なんだか広大で、深淵で、特別な人にしか許されないまばゆいオーラが広がる世界をイメージしてませんか?
ぼくもそうでしたし、若き日のハラリさんも「これはニューエイジのわけのわからない活動だ」と思っていたそうです。
瞑想って、「無」「悟り」「宇宙との一体感」など、そういうものを目指すものなのかと思っていたのですけど、実はそうじゃないようです。
ぼくが毎月参禅しているお寺の和尚も、次のように言います。
「姿勢を正して、呼吸に集中するだけでいいんです」
「いろんな考えが頭の中から出てくる。それらが浮かび、流れ、消えていくのを、ただ観察しましょう」
「見える光、聞こえる音、感じるものをありのままに受け止めるだけです」
「無になれ」「悟れ」「宇宙と一体になれ」。そんなことは一言も言わない。「ありのままを観察しなさい」と、これだけなんです。
ずっと坐っていますと、足が痛くなるし、首筋がかゆくなるし、蚊が「ぶーん」と飛んでくるし、「うわあ、蚊やん。なんでやねん」と思ってしまいます。
でも、痛み、かゆみ、蚊の羽音、なんでやねんなど、これらの不愉快はすべて自分の肉体が反応していることが分かり、すこし時間が経ってしまうと、これらはどこかに消えて行き、気づくとまた違うことに反応してしまっています。
「週末までの仕事、どうやって進めようかな」
「昨日のばんごはんは美味しかったな」
「今日の午後はあの人に会わなきゃいけない、やだな」
「鳥がちゅんちゅん鳴いてるな」
「まじ、足痛いわ、早く終わらないかな」
…とまあ、こんな感じで雑念だらけ。無とか、悟りとか、宇宙との一体化とか、そんなものに遠く及ばない、卑俗でとっても小さいことに心が捉われてしまいます。自分の心なんて制御できたもんじゃありません。
でも大事なのは、この心の捉われを「観察する」ということ。
ハラリさんの瞑想の師匠は、世界中にヴィパッサナー瞑想を広めたことで知られるS・N・ゴエンカさんです。彼は瞑想会に参加したハラリさんに、次のように話したそうです。
何もしてはいけません。(中略)息をコントロールしようとしたり、特別な息の仕方をしようとしたりしないでください。それが何であれ、この瞬間の現実をひたすら瞑想するのです。息が入ってくるときは、今、息が入ってきていると自覚するだけでいいのです。息が出ていくときには、今、息が出ていっているとだけ自覚します。そして、注意が散漫になり、心が記憶や空想の中を漂い始めたら、今、自分の心が息から離れてしまったことを、ただ自覚してください。(P400)
世界は自分が作っている
自然や動物を支配したぼくたちサピエンス。テクノロジーに支配されるぼくたちサピエンス。『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を読んで、少し暗い気持ちになったのは、ぼくだけではないでしょう。
人格、国家、経済、自然環境、家族、仕事、人生など、これまでぼくたちが当たり前だと思っていた価値基準や社会規範が大きく変わる世界がやって来る。そんなことを考えると、世の中や未来の行く末ばかりが気になり、スマホ片手に、いろいろな外部情報にアクセスし、踊らされ、惑わされていく。
あなたも最近、スマホの通知に振り回されていませんか? その延長として、AIが与えてくれる情報や思考に頼りきりになり、テクノロジーに飼いならされ、骨抜きとなった未来の自分の姿が、なんとなく想像できてしまう。
でもハラリさんは、それらだってすべて虚構であるのだと言います。
身の回りの人や、読んだ本から得られるものはすべて、手の込んだ虚構だった。神や天国についての宗教神話も、祖国やその歴史的使命についてのナショナリズムの神話も、愛と冒険についてのロマンティックな神話も、経済成長と、物の購買や消費が私を幸せにすることについての資本主義の神話も。(P399)
自分が自分の人生を生きたいのであれば、だれかが作った虚構に振り回されることなく、まずは自分自身を知ることが大切であり、そのための有効な手段の一つが、瞑想なのです。
ヴィパッサナーのテクニックは、心の流れは体の感覚と密接に結びついているという見識に結びついている。私と世界との間には、常に体の感覚がある。私は外の世界の出来事には決して反応しない。いつも自分の身体の感覚に反応しているのだ。(P401-402)
だれかの何かの言動を不愉快に思うのは、それ自体が不愉快なのではなく、それを不愉快だと感じる自分の身体がまずあるわけですね。それに反応するかしないかも、自分次第だということです。
世界は世界が作っているのではなくて、自分が作っている。だからこそ、この世界を自分の肉体がどういう風に受け止めているかが大事で、そのための第一歩が、自分のことをきちんと知ることなんです。
いま、ここ、自分
『サピエンス全史』『ホモ・デウス』『21Lessons』という三部作の、最後の最後で取り上げたテーマが瞑想であることには、大きな意味があります。
それは、過ぎ去った過去や、未だやって来ない未来について振り回されるのではなく、どこかのだれかのことばや物語に心を捉われるのではなく、まずは今ここにいる自分自身に集中すべきことを物語っているからです。
つまり、「いま、ここ、自分」です。
そして、その「自分」という定義すら変質しそうな時代だからこそ、外からの情報に流されず、まずは身体が感じること、心が反応することを信じてみる。身体性や感受性を研ぎ澄ますことが、幸せへの、遠回りにして一番の近道なのかもしれません。
アルゴリズムが私たちに代って私たちの心を決めるようになる前に、自分の心を理解しておかなくてはならない。(P408)
自分の心を理解するのに、瞑想はおすすめです。
でもぼくは、瞑想はそういった目的のための手段である前に、瞑想それ自体がとっても心地いいものだということを、あなたに伝えたい。
ただ坐る。ただ目をつむる。ただ呼吸に意識を集中する。その先にあるユニゾン。それがとっても心地いいんです。
その心地よさについては、次回にでも綴らせてもらおうと思います。
ぼくの声はユニゾン
ぼくの中には、亡き父、母、兄、祖父母、たくさんの死者やご先祖さまがいます。
ぼくの放つ声は、亡き人たちの声が重なり合うユニゾンです。
キーボードを叩くぼくの指先にも、死者や先祖の存在を感じます。
そんなぼくが、佐々井秀嶺師からいただいたこのことばを寄る辺にして、
日々感じたこと、考えたことを綴ります。
あなたが本を書きなさい。
ここにいる人たちの力を借りて
ここにいる人たちのために
本を書きなさい。
あなたの力を借りて、あなたのために、ことばを綴ります。
今日という日が、あなたにとってよい日となりますように。
そして、ここに綴ったことばの一つひとつが、
あなたの幸せのお役に立てますように。
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