こんにちは。とむらいマンです。
昨日は広島で気づかされました。はい。
(画像は広島八丁堀の超覚寺様。とってもすてきなお寺様なのでまた別にブログ書きます)
仏壇屋という稼業はこれまでずっとお寺様の腰ぎんちゃくだったのだと思うんですよ
ってなことをある方に言ったらですね、
「仏壇屋さんって、お寺のことを『お寺様』って言いますよね」
と返されてしまって…
あああ!
言ってるぅーーΣ(・ω・ノ)ノ!
と驚いたものです。
そうなんですよ。自然に
「お寺様」
こう言っちゃってるんです。
別にですよ、
「様」をつけることは何ら問題なく、むしろ相手に対して敬意を表しており、むしろハッピーな行為なわけですが、
仏壇屋が言う「お寺様」の「様」には、
ちょっとした、しかし根の深い上下関係が見え隠れして、
当の仏壇店勤務の私自身も
なんとなくいやな感じはしているんですよ。
わたしは仏壇屋さんに拾われて7年になりますが、
仏壇屋さんのビジネスモデルってのは、
●お寺様(また言ってるΣ(・ω・ノ)ノ!)から注文をいただく
●お寺様(またまたΣ(・ω・ノ)ノ!)から仏壇や仏具を必要としている檀家さんを紹介してもらう
このどっちかなんです。
ようは、言い方きついですが、お寺様(またまたかいっΣ(・ω・ノ)ノ!)の腰ぎんちゃくなんです。
「なんか注文おまへんか」
「仏壇ほしげなお檀家さんおられまへんか」
こんな感じです。
これはですね、仕方ない。
長年染みついたこの業界の商習慣なんです。
仏壇屋に、大いに原因があります。
だって、仏壇は「仏」の「壇」ですから、
仏教、そしてお寺様(腰ぎんちゃく!)とお客様の間に立って商売するというのが、大基本路線だったわけです。
ここを打破しないと、
仏壇屋の未来はありません!
先日、うちの社員が、「あの松本紹圭さんが講演の中でこう言っとってん!」と、興奮気味に話してくれました。
「仏壇屋さんは、お寺と心中する必要はありません」
まあ、たしかにそうなのかもしれない。
でもねですね、僕が思うに、
お寺を沈没する船とたとえるならば、
お寺の腰ぎんちゃくである仏壇店には、心中とかするしない以前に、
脱出用のボートすらない!
って感じです。
それって、絶対心中じゃんってことですよ。選択肢なし。
いま、まじ、仏壇仏具業界の皆さん。
もうこれ以上お寺様からおこぼれをいただくビジネスモデルはやめましょう。
自分たちが関わることで、お寺様が喜んでいただき、利益や価値が創出される。
そうした動きを僕たち仏壇店が取れれば、お寺と仏壇店は対等で、かつ、適切な対価をいただける。
そして、最終目標はお寺に喜ばれることではなく、
お寺や仏壇を通じて、人々が納得のいく弔い、死との向き合いができる社会になること。
その状態を目指さないといけない。
…のではないでしょうか。
ひたすら考えて、頭の中に汗かいて、びびらずに動いて、トライしないことには、
仏壇屋の未来は、ありません!
行くぜ!
とむらいマン
追伸
くれぐれも断っておきますが、腰ぎんちゃくでない仏壇屋さんもあれば、とても謙虚で素晴らしいお寺様(!)もたくさんおられます。
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