朝日新聞のジャンケレヴィッチの「死」の警句が難解だけど正しい件

死は生に意味を与える無意味なのです

 

こんにちは。とむらいマンです。

この言葉は、2018年9月2日の朝日新聞朝刊に掲載されていました。

天声人語の横に「折々のことば」ってコーナーがあって、

毎日、哲学者の鷲田清一さんが、その日の一言と、補足を綴ってます。

この日は、あの哲学者・ジャンケレヴィッチの言葉です。

引用しますよ。

 

死は生に意味を与える無意味なのです。

死は必ず訪れるが、いつ訪れるかはわからない。私の生が死によって突然途切れるかぎり、私の個々の営みに意味はあっても、「人生全体の意味」などありえない。だが、この無意味な立ち切れは、それまでの連続の意味を明らかにする。だから死とともに意味は消え去っても、「私は生きた」とは言える。

 

 

んー。

難しすぎるわww

しかし、僕はとむらいマン。

この言葉の意味をよーーーく考えてみました。

 

死は必ず訪れるが、いつ訪れるかはわからない。

これつまり、人は主体的に死ねないということです。

病気とか、事故とか、災害とか、事件とかに巻き込まれて、人は死んでいく。

自殺はどうなんだ、という論議が沸き起こると思うんですが、

そもそも自ら望んで自殺への道のりを歩んだか、というところではないでしょうか。

主体的に死んでいくんだけれど、本当に、自分の本心で、死にたくて死んだのかってことですね。

そういう人もいるかもしれない。

こればかりは何も言えないですね。

自殺していくものの気持ちは本人にしか分からないから。

 

私の生が死によって突然途切れるかぎり、私の個々の営みに意味はあっても、「人生全体の意味」などありえない。

ジャンケレヴィッチさんのこの言葉の中で一番のポイントは、「意味」だと思うんですよ。この「意味」をどう解釈するか。

僕は、この意味を「主体性」と考えます。

つまり、個々の営みは主体的に、自分が思うままに行われるってことです。

そう考えると、毎日の「生活」には意味があるんです。

学校に行くのも、仕事に行くのも、家事をするのも、友達と遊ぶのも、恋をするのも、意味があります。

「こんな会社、働きたくねー」

と、嫌々働いている人だって、その会社に入社したのも、辞めないのも、自分が決めてることですからね。

自分自身の個々の営みが主体的になされるのならば、その意味付けもまた可能なんです。

学校に行くのは国や親が行けというから。

仕事に行くのは家族を養うため。

恋をするのはその子がかわいくて大好きだから。

言語化できるできないはさておき、そこには意味があります。

ところが、話が「人生全体」となると、自分自身で意味づけできないんです。

だって、自分が生まれたのも、自分が死ぬのも、自分の意志ではどうしようもできないから。

その始まりと終わりに、主体性はないんですよ。

だから、「人生全体の意味などありえない」んです。

 

だが、この無意味な立ち切れは、それまでの連続の意味を明らかにする。

難しいなー。何言ってんだww

「無意味な断ち切れ」=「死」のことですね、はい。

「それまでの連続の意味」=「その人が生きてきた過程」と解釈するべきでしょうかね。

僕はここで、「人称」が逆転するのではと思うんですね。

つまり、一人称から二人称へ。

人が死ぬことで、その人を語る人は自分自身から、まわりの他人に移り変わるんです。

だって亡くなった人は自分では何も語れないですから。

その人が亡くなることで、故人を偲ぶ人たちの中で彼の「連続の意味」が立ち上がり、明らかになって来る。

だからこそ、「死とともに意味は消えさっても『私は生きた』とは言える」

んじゃないでしょうか。

 

どうだろう…? この解釈。

 

僕はとむらいマンですが、実は「死」よりも「弔い」にこそ興味があります。

弔いというのは、亡くなった人と向き合うという、極めて生きるための営みだからです。

ジャンケレヴィッチさんのこの言葉の中には、

死が一人称(自分自身の死)であることと、死を通じて、その人の死が二人称(「あなた」の死)に切り替わることを語っています。

自分自身の生命を、人生を、想いを、

生きているうちは自分自身が語り、

死んでしまったあとは周りの人たちが語る。

だからこそ、死んでしまったあとでも「私は生きた」と語ることができる。

 

…ということかなあ。難しいゼ。

 

とむらいマン

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