非業の死には手厚い弔いを。暗殺と葬儀~広沢真臣と安倍晋三の場合~

2022(令和4)年7月8日。安倍晋三元首相が凶弾に倒れたのは記憶に新しいところです。そして、安倍晋三元首相が亡くなった6日後、岸田内閣は国葬の実施を閣議で決定します。

非業の死には手厚い弔いを。このように考えるのは、要人であろうと庶民であろうと、昔も今も変わりません。

暗殺された国家の要人の葬儀として、宮間純一さんの著書『国葬の成立ー明治国家と「功臣」の死』から、広沢真臣の葬儀と、安倍元首相の国葬についてご紹介いたします。

150年前も今も、非業の死には手厚い弔いを

まずは基本的なことを押さえておきます。

国葬ということは、政府主催で、全額国費で葬儀を執り行うということです。ですから、国葬の実施に多くの賛否が集まるのはある意味当然です。

この記事を書いているのは安倍元首相の国葬を終えて1か月以上経ったあとのことですが、国葬実施の評価は今なお分かれたままです。

ここまで国民の支持を得られていないのなら、自民党主催の合同葬でもよかったのではないかという意見は十分に理解できますし、私もそう思います。

ただ、一国の元首相が暗殺されたという衝撃的な事件。とりわけ安倍さんはここ20年の日本を象徴する政治家です。「治安がいい」と言われている戦後日本において、国のアイコンの非業の死の衝撃はあまりにも大きく、テロやゲリラなどへの耐性がない政府や国民の動揺は計り知れません。

そんな衝撃的な事件に対して、その動揺を鎮めるために「国葬にしよう!」と血走ってしまったところに、政府首脳もまた動揺していたことが分かります。

同じようなことが、151年前の日本でも起きていました。宮間氏の著書から、その事例を紹介したいと思います。

広沢真臣の暗殺

広沢真臣(ひろさわさねおみ)は、江戸から明治を生きた長州藩士。「維新の十傑」とも呼ばれ、倒幕活動や維新政府の発足に尽力しました。

しかし、明治4年(1871年)1月9日、広沢は刺客の襲撃によって暗殺されます。享年39。

明治天皇からは「賊ヲ必獲ニ期セヨ」との詔が発せられ(大変異例なことらしい)、関係当局は犯人の捜索に躍起になったものの特定には至らず、真相は現在もなお究明されていません。

広沢を討ったのは、おそらく維新派に抗う不平分子だったでしょうし、明治政府にとっては、つぶされた面目をただちに立て直したいと考えたことでしょう。

衝撃を和らげるための手厚い葬儀

広沢のもとにはたくさんの人が見舞いにやって来ますが、とりわけ象徴的だったのが、明治天皇からの弔詞と下賜金(いわゆる香典)。その金額は3,000両で、当時の他の功臣への下賜金と比べても群を抜いて高額でした。

当時はまだ、国葬の制度そのものがなかったため、葬儀は広沢家主催として行いましたが、実際にはその方針を決めるにあたり明治政府が大きく介入してきました。主に、

  • 様式は国家神道に準じて神葬祭にする
  • 埋葬地は、広沢の故郷である山口藩とゆかりの深い青松寺(港区愛宕)にする
  • 葬列には山口藩兵や天皇の護衛兵を派遣して大規模な行列を作った

…などが挙げられます。

ここまで国が介入し、盛大に行われた葬儀。それだけ政府は要人の暗殺に衝撃を受けており、社会の動揺を少しでも早く鎮めようとしたことが分かります。

このあたり、お葬式の果たす役割としてよく理解できますよね。

衝撃的な死、悲しみの強い死に際して、私たちは手厚く故人を悼み、遺族を慰めようとするものです。

「葬儀に費用をかけたくない」という風潮の中にあっても、たとえば若い人の死に対して、「立派な葬儀で送り出そう」「少しでも多く香典を包んで遺族を支えよう」という心理が働くのはいまも昔も、要人も庶民も変わりません。

「死の劇場化」 国葬の政治的狙い

不慮の死、突然の死、若者の死を手厚く弔いたいという心理は、私人でも公人でも変わりません。

しかし公人となると、そこにはどうしても「公=政府」の想いや狙いというものが見え隠れします。著者の宮間さんは、広沢の大規模な葬列を「死の劇場化」と表現しました。

天皇を含めた明治以降の葬儀は記述の通り、次第にみせる葬儀へと変化してゆく。対して、江戸時代においては、将軍・天皇の葬儀や葬列は一般の目から原則隔離されたものであった。

御親兵(天皇の護衛兵)が葬儀の列を護衛したことは、天皇が「功臣」の死を悼んでいることを伝えるものであり、暗殺犯を否定するメッセージを発することにつながった。つまり、広沢の葬列は、第三者の目線を意識して構成されており、明治以後パレード化していく葬列の最初期のケースと位置づけられる。

天皇中心の国家をいままさに作り出そうとしていた明治初頭。広沢の葬儀に多額の下賜金が贈られ、天皇の護衛兵が葬列に参加することは、「天皇も広沢の死を悲しんでいる」=「天皇も刺客のことを許さない」というメッセージを発することにつながります。

死の劇場化、見せる葬儀とは、主催者側(=明治政府)の想いを聴衆たちに広め、ダメージを受けた政府の面子を立て直す狙いがあったことが想像できます。

安倍元首相の国葬にも、当然政治的狙いがあったわけです。

  • テロリズムの否定
  • 民主主義の結束
  • 社会の動揺を鎮める

戦前と戦後 異なる“弔いの主体”

しかし、両者の葬儀には決定的な違いがあります。

というのも、明治時代の国家の主権者は天皇ですから、「天皇とともに故人の死を悼む」という国葬の意義が明確でした。

一方で、戦後日本の主権者は国民ですから、「国民全体が安倍元首相の死を悲しんでいるか」という点で、首をかしげる人がいるのはある種当然なわけです。これは、故人が安倍さんであっても吉田茂であっても、同じ問題として横たわります。

加えて安倍さんの場合は、国葬が決まった後に、統一教会問題が大きく取り沙汰されたため、より国葬の意義が揺らぐ状況になってしまいました。

まあ、この記事は「政治」を語る場ではないので、このへんの是非はあまり深堀りしないようにしておきます。

葬儀は故人のため、遺族のため、社会のため

葬儀というのは、亡くなった人のため、遺された家族のためだけでなく、社会全体のためにも行われるということが分かる例として、広沢真臣と安倍晋三元首相の葬儀を取り上げました。

ちなみに、両者の葬儀の共通点をもう一つ挙げるならば、東京で葬儀を終えたあとに、故郷の山口県でも葬儀が執り行われたということです。

この本は、国葬の成立を通じて、明治政府がいかに近代国家を強固なものにしていったかという政治や歴史の側面が強いのですが、当時の葬儀のあり方や、国葬の成立過程が分かる大変面白い一冊です。

興味がある方はぜひともこちらからご一読くださいね。

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