生死の境にいる人よ ことばにならない祈りを「南無阿弥陀仏」にして捧げる

ことばにならない 祈りのことばが 南無阿弥陀仏

 

こんにちは。とむらいマンです。

大変お世話になっているお寺の住職。

癌が発覚して2年近くになる。抗がん剤でごまかしつつも症状はどんどん悪化。

今月末に訪問する旨を電話すると、今までとは比べ物にならないくらい、電話越しの声が悪化していた。状態の悪さがすぐに知れた。

そして今朝「緊急入院。対応できない」というメールが届いた。

浄土真宗の住職だ。

歯に衣着せない人で裏表がない。言いたいことは何でも言うし、そのぶん細かいことは気にしない。そんな住職に向かってどんな言葉をかけるべきなのかと、これが見つからない。

緊急入院するのだからすぐに返信しなければ僕の言葉は届かない。

そう思うと、なせだか焦る。

何かを伝えなきゃ。でも、その「何か」が分からない。

指先はスマホをタッチしようとするのだが、その一言目が出てこない。

相手は宗教者だ。しかも裏表のない性格の人だ。

「がんばって」とか「きっとよくなるよ」なんて言葉にどうしても違和感がある。

それだけ状況は深刻なのだ。

かといって「極楽往生できたらいいですね」なんて、言えるわけない。

言葉はでないけど、祈る気持ちは間違いなくある。

その祈りの正体が、病気の治癒なのか、穏やかな最期なのか、分からないのだ。

少しでも快方に向かうと、末期がんの苦しみがさらに続いてく。

かといって、冥福を祈っているわけでもない。

ここまでくると、生とか、死とかの境界がなくなる。

どっちを望んでいるのかもわからないし、どちらかを望めばいいという次元に、もはやない。

とにかく住職に平穏が訪れればいい。ほんとそれだけなのだ。

いや、住職がこうだったらいいと願うことすら、おこがましく思える。

本当にただただ、住職のこと思っている人間がここにいます。それが伝わりさえすればいいと思う。

そして、

こうした言葉にできない祈りを託す言葉として、「南無阿弥陀仏」があるのだということに気づいた。

子供の頃から、ばあちゃんに、なまんだぶなまんだぶと唱えなさいと言われてきた。

この業界に入って13年。いろんな南無阿弥陀仏を見聞きしてきた。

当たり前のように、南無阿弥陀仏が僕の前を通り過ぎていった。

経本に、掛軸に、いろんなところで南無阿弥陀仏を見てきたし、

葬儀で、法事で、入仏法要で、いろいろなお坊さんのいろいろな南無阿弥陀仏を見て来た。

それは、料理人が包丁を研ぐように、サッカー選手がリフティングをするように、営業マンがネクタイを締めるように、

あたりまえのように、あちこちで、南無阿弥陀仏が僕のそばにあった。

住職だってきっとそうだ。

浄土真宗のお寺に生まれて55年。

口癖のように南無阿弥陀仏を称えてきたはずだ。

だけど今、よく分かる気がする。

人間の力ではどうしようもできない、抗うことのできない大きな力が目の前に現れた時、

僕たちは祈ることしかできないし、

ことばにできない想い託すことばとして、南無阿弥陀仏が用いられてきた。

無事を祈るのも、快方を祈るのも、冥福を祈るのも、全て何かがずれている気がする。

意味のない祈り。言葉にならない祈り。

僕の中から、間違いなく、祈りの衝動だけが、わき起こるわき起こる。

南無阿弥陀仏は、死者だけへの言葉ではないし、生者だけへの言葉でもない。

死者も生者もひとまとめにした、誰に、何を言っていいのか分からない原始的な祈りを託す言葉として、きっと人々の口から発せられてきたのだ。

僕は、住職の何を祈っているのか分からない。

でも、生死の境に足を踏み入れている住職に、僕はこの念仏を捧げる。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

なまんだぶなまんだぶ。

 

とむらいマン

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