『懺悔文』は、ごめんなさいとありがとうの誓い|仏壇カタルシス#10

仏壇に手を合わせる時、宗派の経本を開いてお経を読む人も少なくありません。

天台宗、真言宗、浄土宗、臨済宗、曹洞宗などのお経本には、はじめの方に「懺悔文さんげもん」という偈文げもん(韻文形式のことば)があります。

わたし玉川は、この「懺悔文」をとても大切にしています。

今日は「懺悔文」についてお話してみようと思います。

懺悔文とは

懺悔文とは、7文字×4句、28文字で作られた短い偈文です。

ちなみに、偈文とは、仏さまの教えを韻文形式で説いたもののことで、そのことから「懺悔偈さんげげ」とも呼ばれます。

懺悔とは、文字通り、過去に犯した過ちを悔い改めて許しを請うことです。一般的には「ざんげ」と言いますが、仏教では「さんげ」と読みます。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

これを現代語訳すると、次のようになります。

私が昔から作ってきたさまざまな悪業は、
遠い過去から積み上げてきた、貪瞋癡(=三毒)に拠り、
それは、身(行動)、口(発言)、意(心のはたらき)から生じたものです。
私は今、それら全てを懺悔します。

懺悔文は、だいたいお経の冒頭で読まれます。

お経(仏さまの教え)をいただく前に、まずは自分の良くないところ、至らないところに目を向けようよ、ということなのです。

「亡くなった人への供養の場なのに、どうして自分への懺悔なの?」

こう考える人もいるかもしれません。

お仏壇って、亡き人に向き合い、仏さまに向き合う場所です。でもそれが、巡り巡って自分自身に向き合うことにもなっていきます。

そしてこの向き合うべき自分というやつは、とても愛すべき奴でありつつ、一方で、とても弱くて、愚かで、醜くて、憎たらしい奴でもあったりします。

自分がこれまで犯してきた悪いことを思い出すと、本当に胸が痛くなります。その胸の痛みの原因を教えてくれるのが、この懺悔文という偈文なのです。

「貪瞋痴」と「身口意」とは

懺悔文の中には、むずかしいことばが2つあります。

貪瞋痴とんじんち」と「身口意しんくい」です。

貪瞋痴とは、人間が根源的に持つ3つの悪業のことで、「三毒」と呼ばれます。

  • 貪…むさぼり。欲望。
  • 瞋…怒り。憎しみ。
  • 痴…真理に対する無知。愚かさ。

そしてこの三毒は、身口意の「三業」を通じて発露します。

  • 身…身体的な活動
  • 口…ことばによる行為。言語表現。
  • 意…意志。こころのはたらき。

このように、「貪瞋痴」と「身口意」の意味が分かると、この懺悔文が説くところの解像度がさらに高まるのではないでしょうか。

これらをふまえて、懺悔文をさらにかみ砕いてみます。

私が昔から作ってきたさまざまな悪い行いは、
遠い過去から積み上げてきた、根源的な悪業(むさぼり、怒り、無知)に原因があり、
私の行動、私の発言、私の心のはたらきから生じたものです。
私は今、それら全てを懺悔します。

こうしてみると、懺悔文って、上から目線じゃないんですよね。

つまり、自分がしでかしてしまった過ちを告白して神や仏に許しを請う、ということに主眼が置かれていないことが分かります。

むしろ、人間は誰しもが「貪瞋痴」という根源的な悪性を具えていて、それらは「身口意」を通じて表側に出てしまうんだよという真理を説いているのにすぎないのです。

懺悔文を読む私たちは、

「私が悪いんです!」と感情的になることもなく、
「仏さま許して下さい!」と盲目的になることもなく、

悪性がどのように生まれてどのように形になるのか、その真理への気づきのきっかけを与えられているのです。

「昔」と「無始」

ここまでで、懺悔文の意味するところのほとんどは理解できたと思うのですが、さらにもう一段奥深いところにまで進んでみたいと思います。

懺悔文の中に「昔」と「無始」という、時間を指し示す2つのことばがありますが、これは一体、いつのことを指しているのでしょうか。

所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)

これらは…

私が昔から作ってきたさまざまな悪業は、
遠い過去から積み上げてきた、貪瞋癡(=三毒)に拠り、

…と訳されるようです。

「昔」と「遠い過去」。いったい何が違うのでしょうか?

ここからは、玉川なりの結論なのですが、

「昔」は、自分が生まれてきてから今日までのことを指します。

そして、「無始」とは、「始まりがない」ということですから、永遠の過去から永遠の未来まで、つまり輪廻転生をくり返す長い長い時間の中で、ということではないでしょう。

1句目では、自身の記憶の中で思いだされる悪業に向き合わせ、
2句目では、そんな自分の存在は、前世から来世まで続いていて、長い長い輪廻の中で自分が生かされていることに気づかされます。

懺悔文には、そうした時間軸の飛躍というダイナミズムも込められています。

つまり、この世界での悪業は、前世や来世の因縁によるものであるからこそ、時間を超越してぼくたちを守ってくれる仏さまに手を合わせましょう・・・ということにつながるのです。

懺悔と感謝

毎日生きていますと、本当に身勝手な言動で、だれかを傷つけたり、振り回したり、してしまいませんか? そのたびに、自分がイヤになったり、情けなくなったりするものです。

取り返しのつかない言動をしたこともあるし、思い出したくない過去もあります。

そんなイヤな自分、消し去れない過去というのは、向き合うことそのものがしんどいですし、ましてそんな重い話を聴いてくれる相手がいればいいのですが、そんな相手って、いそうでいないものです。

それでもぼくたちは、この世界に生きている以上、その悪業を抱えて生きていかなければなりません。

ぼくはいつも、仏さまに向き合う時に、心の中でこんなことばを念じています。

これまで自分が犯してきた罪をここで深く懺悔します。
そして、そんなぼくでも、いまここにこうして生かされていることを
深く、深く、感謝します。

懺悔と感謝の場所。そのうちのひとつが、お仏壇だったりするのです。

懺悔文から始まるお経本を読むことが、亡くなった人の供養につながるのですから、
ぼくたちの幸福がそのまま故人さまの冥福、ということなんでしょうね、きっと。

ごめんなさい。ありがとう。
その誓いを立てることで、今日もがんばろう!という気になれます。


仏壇カタルシスとは…

仏壇店に勤務するライター・玉川将人が、
インド仏教最高指導者・佐々井秀嶺師からの…

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