死者ともに生きていく!自殺した兄を供養するのは僕しだい

さあ、昨日と打って変わって、

今日は晴れた!

 

こんにちは。とむらいマンです。

昨日のブログに対して、Twitterでこんな返信をいただきました。

 

 

サルの床屋さん。

ちょいちょい僕のブログに、「いいね」とか返信とかいただいて、

本当にありがたいです。

感謝!

昨日のブログは、僕の兄の自殺について書いたのです。

感傷的で感情的にバババっと書いてしまったのが悔やまれますが(ええい、ままよ!)

今日は、サルの床屋さんの返信を通じて、

もう一度、自殺と、遺された者の向き合い方について綴りたいと思います。

 

「一切衆生悉有仏性」って、なに?

 

まずは、サルの寝床さんも言われていた「一切衆生悉有仏性」ってなに? にお答えします。

「いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」と入力すれば一気に漢字に変換できるほどに、認知されている言葉です。

広辞苑(第五版)にはこう書かれています。

いっさいしゅじょう【一切衆生悉有仏性】

生きとし生けるものはすべて仏となる性質を内に秘めているという説。

つまり、人間には誰もが仏になれる可能性を持っているのですが、これは原始仏教、つまり古代のインドで発生したころの仏教にはこの考え方はなかったようです。

仏教がチベット→中国と伝播する中で、大乗仏教が生み出した教理なんだそうですね。

さて、「衆生」と聞くと人間に限定されるのですが、

この言葉は日本に入ってくると、

「草木国土悉皆成仏」そうもくこくどいっさいじょうぶつ)

となります。

つまり、人間に限らず、この世の草木や国土なども仏性を秘めているだけでなく、成仏すると説く。

このへん、草、木、石、水、土などの森羅万象に仏性や霊性を感じるところがなんとも日本らしいなあと思います。

 

自殺者にだって、仏性はある!

 

僕は、自殺者にだって仏性はあると思ってます。

じゃあ、「仏性」ってなんやねん、となるのですが、

このへんを詳しく論じると話がどんどん脱線するので、スルーします。

僕は自殺行為を肯定も推奨もしないけれど、否定もしません。

自殺は悲しいし、こちらに苦しみを強いるけれど、

兄が、いろいろあった自分の人生を、自分自身で断ち切ったという判断そのものは、否定したくないんすよ。

彼なりに、もがき苦しんだ結果の判断。

あるいは、何も考えずに、ふっとその気になってしまったのかも。

いずれにせよ、自殺に至るまでの1人の人間の苦悩とか、屈辱とか、孤独とか、

そういうプロセスを、

そしてその先の判断を、

尊重してあげたいんですよ。

兄の人生、自殺者の人生。

だって、彼らの人生に僕らはなにも口出しできないから。

尊重してあげるしかないですよね。

 

兄の命は、僕の命でもあるんだよ!

 

だけどですね。

自殺者の命は、自分自身だけのものじゃない。

周りの人のものでもあるのです。

僕にとって、兄は、僕の一部でもあるんです。

兄弟ですらそうなんだもん。

親や、奥さんや、子供だったらなおさらじゃないですか。

1才の息子と奥さんを置いて自ら亡くなった兄。

やっぱり「バカヤロー」って叫ばんにゃならんですよ。

ぶん殴らないと、ダメ。

兄の抱えた息苦しさ、自殺という判断は、兄個人に対しては尊重するよ。

でも、遺された家族のことを思うと、やっぱりダメなんだと思うんです。

自殺、ダメ。

もちろんですよ。

それも込みで、「兄にも仏性がある」という考えは大賛成です。

ただ、遺された僕らもにも仏性はあるのだけれど

愛別離苦という苦しい苦しい業苦が待ち構えているのです。

これが、辛い。

 

受け入れられない不条理を神仏に託す

 

僕たち人間は、自分たちの理解を超えるものに触れると、

なんだか形而上的存在(目に見えないもの、神とか、仏とか、妖怪とか、死神とか)を想像せずにはいられない。

いや、きっとそういう存在を創造して、折り合いを付けようとしたのだと思う。

そういう意味では、

病気も、事故も、天災も、

すべては人間の人知を超えたものが僕たちの命を奪っていくわけです。

病気は病だし、事故はタイミングだし、天災は大きな自然現象だし、

ちっぽけな存在の僕たちは、その、

自分たちを脅かす、とっても大きなものの働きに意味を与えて

いま起きている不条理を理解しようとする。

「天罰かなー」「仏罰かなー」と思うと、

神社に、お寺に、祈願に行く。

葬儀もするし、お宮参りもする。

僕は昨日のブログでこう書きました。

 

だって、自らが死を選んだんですから。

そこには、神や仏を担ぎだす余地がないんです。

 

 

これは、自殺した兄が神や仏に見捨てられた、ということではなく、

 

遺された僕たちが神や仏に頼れない

 

…ことを意味するんです。

だって、自らの命を自らが殺したんですから。

そこには、神とか、仏みたいな、とっても大きなものの働きってものがない。

自分が自分を殺した。

だから僕たちは。

「兄ちゃんなにを考えていたの?」

「どうして死んでしまったの?」

「死んだあとは寒いところに行ってないかい?」

…と神や仏に頼れない。

亡くなった本人に聞かなきゃ分からない。

でも、亡くなった兄は、なんっにも、答えてくれない。

当然ですよね。

不条理を、託す場所が、ないんです。

 

「僕」の命と「僕ら」の命

 

兄はきっと、「僕」のことしか考えられなかったのだな。

「僕ら」と考える余裕がきっとなかった。

でもね、

だからこそ、

僕らは「僕ら」を大事にしなければならないと思うんです。

家族でも、友人でも。

普段から、些細なコミュニケーションをとって、

気遣いし、気配りし、

お互いがお互いを支えあわないといけない。

個人主義が進みすぎると、

自分一人で解決できない問題が現れると、

僕らみたいな弱い小さな人間は

一気にパニック起こしちゃうから。

 

亡くなった人の供養は、遺されたものの生きざまで決まる

 

ええ、

とっても個人的なことなので、

脈絡なくダラダラ書いてきましたが、

最後にこれを。

 

亡くなった人の供養は

遺されたものの生きざまで決まります。

 

と、僕は確信しています。

兄が何を思って死んでいったのか、

結局誰にも分からずじまいです。

そして、それを受け入れきれた人、受け入れきれなかった人、

それぞれいると思う。

家族親族の中でも、それはさまざま。

僕は、ありがたいことに、受け入れることができ、

毎日を元気に、兄の分まで生きてます。

いや、

 

兄と一緒に生きてます。

 

この、「一緒に」が大事。

もう亡くなった兄は、僕の中で生きている。

僕がこの命を力強く生ききると、

僕の中の兄も、供養されるんです。

だから僕は、僕のためだけにではなく、

「僕ら」のためにも、幸せにならなければならない。

だから、今日も、力強く生きていきますよ!

ドーンと、いきますよ。

兄の仏性は

僕の仏性と、ともにある。

サルの寝床さん。

そして、ここまで読んでくれたみなさま。

ありがとうございました!

 

さあ、昨日と打って変わって、今日は晴れた。

もうすぐ彼岸だ。

お墓参りの、絶好の季節です。

兄ちゃんに、会いにいくか☆

 

とむらいマン

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