なあ、
人って死んだらどうなると思う?
こんにちは。とむらいマンです。
昨日のブログに書いたように、やなせななさんとありがたい仏縁をいただいた僕。
(と言っても、ツイッター上で相互フォローしただけです)
そのご縁をつないでくれた、いつもお世話になっているお寺様が持ってきてくださったサイン入りDVD。
これがまた、とむらい的にグッときたのだなー。
とてもよかったのだなー。
今日は、はばかりながらも、
やなせさんの歌の世界を映像化したという
短編映画『祭りのあと』について綴ります。
もうね。この映画見てると、涙腺うるうる緩んでましたわ。
僕も年をとったのね。
いろんなことが、思い出されて、じんわり、身体中のいろんなところから涙がにじみ出る。
映画は33分の短編映画。
妻を亡くした高齢男性が、悲しみや孤独感から立ち直って前向きに生きていくという、
あらすじだけ読むとどこにでもあるような変哲のないテーマ。
でも、この映画は優しくって、奥が深いし、
自分のことと重ねて、余計に感じ入るものがありました。
あの、ですね。
妻を亡くした男ってのは本当に辛いんです。
もう、見てて痛い。
主人公の春雄を見てて、自分の父親を思い出しました。
家事も洗濯も料理もできない上に、男性ってのは女性と違ってコミュ力がないから、どんどん内側にふさいでいってしまう。
不器用なオヤジの指先が洗濯物をたたむ。掃除機をかける。
その時の前かがみ、猫背。
その背中が、本当につらいんだなあ。
僕の父親は、その孤独に耐えられなかった。
映画の中の春雄は、よかったね。
亡くなった奥さんが背中を後押ししてくれて、子や孫に囲まれて。
まがりなりにも、なんとき生きていけそうですね。
いや、それはあくまで映画というファンタジー。
本当は、愛別離苦は、もっと辛くて、もっと情けなくて、もっと惨めなんだと思います。
「もういっそ」と思い詰めることだって何度もあるでしょう。
たった一歩踏み外すだけで、
なにもかもあと戻りができない所まで落下してしまう人、たっくさんいます。
「それでもなんとか」と、綱渡りの上でふんばってる状態の人、たっくさんいます。
でも、だからこそ、「これでもう思う残すことはないわ」から始まるメグミが最後に投げかけてくれた言葉が支えになる。
たとえなにも見えなくて
もう2度とこうして触れへんかっても
わたしはずうっとここにおるからね
ずうっとここにおるから、大丈夫や
ここで語られるメグミの言葉は、
妻から夫への言葉にはとどまらない奥深さがあります。
これは、死者から生者の言葉であって、
その先に、日本人が長い年月をかけて積みあげてきた死生観がきちんと捉えられている。
死者や神様という、目に見えないもののために行われる祭り、神楽。
目に見えないけれどそこにいるという感受性。
こうした日本人の、死者を見る目、神仏を感じる感性。
そういったものが、誰の心にも響く物語として、優しく、分かりやすく描かれている。
僕は、やなせさんの楽曲を全て聞いたわけではありませんが、
「神仏」とか「宗教」とか「死生観」とか、
そういうかたくるしさをとっぱらって、
自分たちの身近な喜びや悲しみの先には、亡き人がいて、その先に目に見えない存在がいて、それがたとえば、神仏であって、自然であって、
こういうものはすべて地続きで続いているんだよ…
きっとそういう世界観を描き、歌いたいのでは、と感じました。
やなせさんは、仏教寺院の住職ですけど、
そんな「教義」とか「教え」とかではなく、
歌を歌えば、楽しくなる。
悲しいことがあっても慰めてくれる。
そういう楽しみや慰めの先に、仏性とか、霊性とか、死生観とかが感じられるのですね。
すっかりとりこになりました。
ちなみに妻を失った主人公役は大塚まさじさん。
なんと、あの『ぷかぷか』の人です。
『ぷかぷか』。知らないっすよねー。30代の諸君は。
『ぷかぷか』といえば西岡恭造さんとばかり思っていたのですが、実は大塚さんの楽曲でもあったのですね。
今日も営業で市内のお寺を4ヶ寺周りました。
どのお寺もやなせさんを観に行かれていました。
「やなせさん、観に行きましたー?」
…と聞くと、
「観た観た。よかったねぇ~」とか
「んもう、声が優しくて」とか
「歌う時と話すときのギャップが面白かったよねぇ~」とか
「行けへんかったけど、CD持ってんねん」とか
こういう言葉を聞くと自分事のように嬉しく感じてしまいます。
とむらいマン
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