家族葬の良し悪し。人は人に会うことで救われるのです

棺の中から自分の葬儀の光景を覗けるとします。

参列者が家族だけだったら、もちろん嬉しいのですが、

ちょっと寂しくないですかね。

こんにちは。とむらいマンです。

いま私、川村邦光さんの『弔いの文化史』を読んでいます。ドン!

川村邦光『弔いの文化史』

川村邦光『弔いの文化史』

ちょっと堅苦しっくて、予備知識がないと難しい本なのですが、

これがとむらい的には結構おもしろい!

「とむらふ」の2つの意味

著者自身が福島県出身ということもあってか、

序文には東北を旅した松尾芭蕉と東日本大震災について触れておられます。

その中で、「とむらふ」の2つの意味について言及されてます。

わたくしとむらいは、常々…

「人は儀式とかしきたりで供養されるのではない。人によって供養されるんですたい!」

と考えておるのですが、

著者の川村さんも、まさにそのことをドンピシャで言われております。

背筋にビビビビビっと電気が走ったものです。

つまり、俗に言う弔いとは、

「弔ひ」であり「訪ひ」なのです!

亡き人を訊ねて、菩提を願うのが弔いである。

もっと幅広く言うなら、亡き人の縁を思い起こして、何らかの形で継承していくのも弔いとなろう。

めちゃめちゃいいこと言いますやん!

「弔い」の語源は、「訪い」なのです。会いに行くことなのです。

葬儀の本質は、人が人に会いにいくこと

家族葬がすっかり葬儀のスタンダードになってしまいました。

それはもう仕方がないのです。

「時代の流れ」「社会の流れ」は私たち市民の総意ですからね。

いまの社会のさまざまな要因が絡み合って、家族葬が支持されています。

家族葬にもいい面と悪い面があるので、一概に否定することはできません。(このへんはまたおいおい詳しく書いていこう)

しかし、

家族葬は、葬儀の本質に関わってしまう決定的な性格を持っています。

それはすなわち、

人が人に会うことを制限しているということです。

ここで言う「人」というのは、実に多くの人たちを指します。

故人も、

喪主も、

家族も、

親族も、

隣近所の人たちも、

故人の友人も、

遺族の友人も、

会社関係の人たちも、

義理の参列者たちも、

そして、寺院も、

みんなみんな、「人」ですやん!

遺された遺族は、

こうした人たちの支えの中で、

通夜や葬儀という儀式を執り行い、

死という現実を受け入れ、乗り越えていくのです。

ですから、戦後にばばばばばっと隆盛を極めている葬儀社、

そしてその葬儀社が作りだしたと言われている「家族葬」

そろそろ見直されなければなりませぬなあ。

とむらいマン

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする