聞くことは、癒しだからね
こんにちは。とむらいマンです。
弔いという大切な営みには、その道の専門家、つまり宗教家の存在が必要不可欠です。
日本ではお寺さんがその筆頭なのですが、では、お寺さんの仕事って何だろうと考えた時に、あるキーワードが浮かんでくるのです。
それは、
「聴く」
ということ。
2018年から19年にかけて、いろんなご縁があってさまざまなお医者様やお寺様のインタビューを記事にしています。
お寺さんと言うと
ぽくぽくお経を上げながら、
なむなむ念仏を唱えながら、
この世での生き方とか、亡くなった人をどう供養すればいいのかなどを、
「話す」のが仕事だと思ってました。
しかし、お寺様からの声は意外なものでした。
たとえば、尼崎市にある日蓮宗妙昌寺住職の村尾さんは、こう仰いました。
僕はこれまで、日蓮宗のさまざまな修行や研修を受けてきましたよ。でもね、それらは全て、教えをどう伝えるかという「話す」勉強だったんです。お坊さんって人の話を聞かずに話してばっかりでしょ(笑) 人に寄り添って、話を「聴く」という概念が、あのころはなかったですね。
まいてら新聞「おてらびと物語『おだやかな武庫川沿いの救いの場 – 妙昌寺 住職 村尾雄志さん』」
聴くこと、寄り添うことが大事なんです。
もちろん全てのお坊さんがこうした意識で檀家さんや信者さんに向き合ってるかどうかなんてわかりません。
だけど、いわゆる宗教的な死後の物語が信じられなくなってきた時代です。
極楽浄土、あるんかい?
三途の川、あるんかい?
死んだら死ぬだけ、骨は海に撒いてくれい!
こういうことを口にするのが当たり前の時代です。
でも、誰にだって、死の不安、恐怖、悩みは、ある。
それを「大きな物語」では回収しきれなくなっているんですよね。
だからこそ、まずはひとりひとりが確実に持っているそれぞれの物語を聞き出し、
その中に横たわる生きることへの悩み、送り出すことの不安、死ぬことへの恐れ
こうしたものを掬ってあげて、
それから、その人その人に合う言葉を仏教的な解釈を交えながら伝える。
物語りを、語り、受け止め、分かち合う。
こうした取り組みというか、姿勢が大事になるんじゃないかと思います。
また広島市にある浄土宗妙慶院住職の加用さんは、
お寺を飛び出して街のさまざまな場所で、
人々の声に耳を傾け、本音を語れる空間作りに勤しんでます。
坊主バーでは、仏教の教えなど説かずに、等身大の目線で参加者の話に耳を傾けるという加用さん。
(まいてら新聞「おてらびと物語『建築家から僧侶に衣替え。自由に語れる空間づくりを求めて』 - 妙慶院 住職 加用雅信さん」より)
もうすぐ平成が終わります。
スマホを片手に持って、誰もが自分の声を外に向かって発信できる時代。
いかにすごいこと、面白いこと、周りの人達の心を満たすことを発信できるかも大事だけれど、
同じくらいそれら無数の声を、聞いて受け止める役割もものすごく重要になってきているのだと思うんです。
かつて、お寺が地域コミュニティの中心であったのであれば、
21世紀の、新しい時代のお寺のかたちは、
そこに人が集まって、本音を語れる場所こそが求められる。
喫茶店とか、スナックとか、コワーキングスペースとか、公民館とか、
人が集まるところはたくさんあるけれど、
そこに死生観や死語観を語れる人、受け止められる人がいるかどうか。
死の問題、命のことで悩んだり、不安な人がいるならば、
そこに宗教者がいるべきだし、
それこそが宗教者の真骨頂だと思うんです。
とむらいマンも、
自分の死生観を語るだけでなく、
人々の死生観に耳をすまそうと。
じっくり聴こうと、決めた夜でした。
朝5時。
興奮し過ぎの徹夜です。ねよねよ。
とむらいマン
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