葬儀コンサルの名記事にアンチコメントが止まらない!

人間の存在そのものが非合理的なのに、

その死を合理的に乗り越えようとすることの滑稽さと恐ろしさ。

 

こんにちは。とむらいマンです。

東洋経済オンラインに吉川美津子さん(葬儀・お墓・終活コンサルタント)の記事が掲載されていて、それがとっても大切なことを書いてくれていた。

と僕は思ったのです。

 

東洋経済オンライン『「親の葬式をしなかった」59歳男に一生残る後悔~葬式不要論が合理的と断言できない理由~』

 

はい。

家族を5人亡くし、500件の葬儀を担当し、1000件以上ものご遺族の供養のお手伝い(仏壇墓石店として)をしたものとして、吉川さんの語るところ、後悔を口にする59歳男性の言葉は、よく分かります。

しかし、この記事に対する読者のコメントがなかなか辛辣で、アンチコメントが止まらない!

今日はそのことに触れたいと思います。

 

吉川さんの記事内容の要約

詳しくは、上にリンクを貼りました吉川さんの記事を読んでほしいのですが、要約しますと…

 

●「死んだら火葬だけでいい」という父の遺言に従って直葬にした

●葬儀後のお悔やみの電話や来客、香典返しの手配に忙殺した

●「何となく位牌はあったほうがいい」「やっぱり一区切りとして法要はしたほうがいいと思う」という気持ちになる

●僧侶の手配、戒名の依頼、位牌の作成、法要の手配など、葬儀に時よりも費用がかかったが満足感が得られた

●故人は「墓はいらない」と言っていたが、遺された家族はやはりお墓で供養したいと考える

●法要のたびにAmazonで僧侶を依頼するのかと思うと違和感が残る

…ということです。

普段なかなか死に触れない私たち。

いざ自身の親や大切な家族を失うと、亡くなった故人の遺志を尊重するべきか、遺された自分たちの希望を貫くべきか、このはざ間で揺れ動くものです。

「お父さんは密葬でいいって言ってたけど、やっぱり小さくてもお葬式をしてあげたい」

「お母さんは海に流してくれって言ったけど、遺骨がなくなってしまうのはやっぱり寂しい」

こういう声が、葬儀や供養の現場では日常茶飯事のように上がります。

記事に対してのコメントが辛辣すぎる

さて、この記事には65件ものコメントが残されていますが(令和元年5月2日現在)、そのほとんどがアンチな反応です。

まずはこちら↓

さらには、こちら↓

こんなのも↓

釈迦の逸話を引き出したこんな方も↓

そして、中には記事に同調している人がいるのですが、「いいね」の数が少なすぎる…

んー。これが世論というものなんでしょう。気分はすっかりorz…

(まあコメントを残している人の内のどれだけの人が近親者の死別を経験しているのか、という疑いもある)

“ビジネスコンサルタント”という肩書がビジネス臭を増幅させている

僕は弔いのプロとして言わせてもらいますが、吉川さんの指摘は、間違っていません。

「安く」「楽に」という葬儀や供養を追い求める先にどんなことが待ち構えているか、ということを分かりやすく書かれています。

ただ、物足りないのは、もっと「心」の部分に踏み込んでほしかったなあというところ。

まあ、これ、コンサルタントとして書いているわけですから、当然目に見えるお金や手間についてばかり書いていて、

それゆえにコメント欄が「金儲けだ!」「拝金主義者め!」と炎上しているのでしょう。

(僕から言わせれば「金」の切り口で批判している人たちも拝金主義者)

しょうがないですね。

「葬儀・お墓・終活ビジネスコンサルタント」としている時点で、ビジネス臭が増幅されてしまう。

本質的な内容が、この肩書でうやむやになっちゃった。残念です。

大原則は、葬儀や供養は生きている者たちのため

大原則は、葬儀や供養は、生きている者たちのために行われます。

死んだ人は死んだだけです。何も語りません。

それでも、人類が何らかの形で死者を葬り、弔ってきたのは、生きている人間たち、遺された人間たちにとってそうした方が都合がいいからです。

「お金は生きている人のために使うべきだ」

という声がありますが、それは裏返すと、

「おれは死者と向き合うためにはお金は使わないぜ」ということに他なりません。

死者を手厚く供養することにお金を使う意味が感じられないわけですからね。

死者の都合ではなく、極めて生きている人間の都合で、葬儀や供養を「楽に」「安く」しようとしているわけです。

死者とのつながりが感じられない世の中

もしも自分と死者がつながっていると感じられるならば、葬儀や供養を丁寧にしようとするでしょう。

もちろんここでいう「丁寧」とは、お金の高い安いは関係ありません。

死者と向き合うために手間暇をかけられるか、じっくりと時間をかけられるか、ということです。

死者とのつながりが感じられないから、「お金は生きている者のために使え」という言葉が出るのです。

この原因は、行き過ぎた個人主義の結果です。

親子孫といった縦の先祖関係のつながりが断ち切られ、

自分の命は自分が生まれてから死ぬまでの間に完結するとしたのが近代個人主義です。

だから、死者と自分を分けて考える。

親や先祖からのつながりで自分の命があるという事実が、個人主義に埋もれて感じにくくなった。

また、核家族が進行したから、葬儀や法事をどう行えばいいのかの経験がない。

つながるべき命は、肥大した資本主義(=拝金主義)や、個人主義(=現世利益)のためにぶつ切りにされていると、とむらいマンは思います。

釈迦も親鸞も、結局は弟子たちがお墓を建てた

たとえばコメントの中にこんなのがあります。

そもそも仏教の開祖であるゴータマ・シッダールタ(通称ブッダ)は「死んだら墓を造れ」とか「先祖を供養しろ」などと言った事はありません。

なるほど、なるほど、たしかにその通りかもしれません。

また、日本の仏教界のスターに浄土真宗の開祖である親鸞がいますが、親鸞も自身の死後について弟子たちにこう述べたと言われています。

某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし

(私が死んだら遺体は鴨川に投げ入れて、魚のえさにしなさい)

なるほど、なるほど、たしかに親鸞聖人もこう言ったのかもしれない。

だけど、釈迦は火葬された後に、遺骨を8つに分けられ、周辺諸国でうやうやしく祀られ、それはさらに小さく分けられて世界中で安置され、そのうやうやしさは現代にまで続いているのです。(現代の日本にも釈迦の遺骨を祀る「仏舎利塔」は各地にある)

親鸞聖人も弟子たちがお墓を作り(大谷廟堂)、いまでも熱心な門徒がお参りに来るだけでなく、親鸞の側に納骨している。

これからも分かるように、葬儀や供養は、故人の遺志だけでなく、遺されたものの「納得」で作られるのです。

非合理的な「なんとなく」がものすんごく大事!

僕はこの記事の一番のハイライトはここだと思ってます。

何となく位牌はあったほうがいい」

葬儀のあとの自宅への弔問が大変とか、お金がかかるとか、でもこれらってなんとかなります。お金をかけない供養の方法だってたくさんあるから。もっと言うならば、がんばればお金もなんとか稼いだり手に入れたりできる時代じゃないですか。

むしろ、「何となく位牌はあった方がいい」のこの何となくが、ものすんごく大事だと、とむらいマンは思います。

なんとなく。

言葉では説明がつかない、とっても非合理的な感覚です。

でもね。

そもそも人間が生まれてきたことすら、非合理的で非論理的なわけですよ。

だから、人間が死ぬことも、死者を思うことも、どんなに合理化を進めたところで、非合理的なんです。

だって人間の存在そのものが非合理的で非論理的なんだから。

亡き父に対して、

「なんとなく位牌があった方がいい」

こう感じたのは、亡き父を感じられる何かを欲していたからです。

最後に吉川さんの書き記した一節を引用して終わりたいと思います。

しかし「遺体の処置」のみを葬送儀礼というのであれば、有史以来、世界で弔いの儀式が今日まで続くこともなかったでしょう。そもそも冠婚葬祭などの通過儀礼は、第三者には不合理で非論理的に見えるものです。

とむらいマン

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