ユニゾン的身体感覚
ぼくの声はユニゾン。この感覚、あなたにも分かってもらえるかな。そのために、もう少し詳しくことばを連ねてみたいと思う。
ユニゾンというのは、あくまで便宜上の表現であって、重なっているのは声だけじゃない。
ぼくは今、通勤バスの中でノートパソコンを開いてことばを綴っているけれど、キーボードを叩くこの指先にも、亡き家族たちの存在を感じている。
もっと言うならば「いいことばが浮かんできたから、いまここでPCを開こう」といったひらめきみたいなものにも、亡き家族や先祖たちのアンテナを感じている。ささやかな一挙手一投足の一つひとつが、ぼくと死者たちとの共同作業といってもいい。
こうなってくると、もう「ぼくが先祖で、先祖がぼく」の境地である。主客混交とはこういうことで、要はごちゃまぜなのである。
たとえば、よく占い師の人が「あなたのうしろでご先祖様が守ってくれていますよ」なんて感じで霊視というものをしているみたいだけれど、ぼくの場合は、「うしろ」とか「そば」とか、そういった自分の外部ではなく、まさに内部にいる感じとでも言おうか。
いや、外とか内といった二項対立はどうも不毛で、亡き家族はぼくのこの身体そのものなのだ。そうとしか言いようがない。実際に22歳で祖父と母と兄を亡くしたころから、このユニゾン的身体感覚を、ぼくはこう表現していた。
「体中の毛細血管という血管からじわぁっとしみ込んでいる感じ」
これ、もう本当にそうとしか言いようがない。
ユニゾン的先祖供養
ぼくが先祖、先祖がぼく。こうなってくると、じゃあ、先祖供養ってなんなんだ? という話になるよね。
「このお経をあげるとご先祖さまは供養されますよ」
「お墓参りをするたびにご先祖さまに会えるのですよ」
たしかにそうなのだ。お経やお墓参りをすることでご先祖さまが喜んでくれるのは、ぼくも例外じゃない。
でも、ぼくの場合、仏壇の前にちょこんと座った時、あるいは先祖の戒名が彫られたお墓の前に立った時点で、ぼくの中のご先祖さまたちが「ワサワサっ」と落ち着かずに喜んでいる様子。だからぼくも自然と気分を昂揚させながら、
「ご先祖さまは手を合わせる先にいるんじゃなくて、手を合わせるこの中にいるんだよな」
…と再確認する感じ。この再確認が、お仏壇やお墓の醍醐味だ。
そうなってくると、ぼくにとっての先祖供養とは、ぼくがこの身体(皮膚はミルフィーユで声はユニゾンのこの身体!)で、毎日を楽しく生ききること以外にない。
だってそうじゃん。ご先祖さまはぼくの中にいる。ぼくが楽しいとぼくの中のご先祖さまも楽しい。ぼくがこの世を極楽と思うことこそが、ぼくの中のご先祖さまにとっての極楽往生なのだ。
いまぼくは、こうしてこの感覚をあなたに伝わるようにことばに置き換えているけれど、こうした感覚を、母の通夜式の最中に、22歳のぼくはすでに悟ってしまっていた。悲しいから、読経中にも涙はとめどなくあふれ出た。でも、不思議と寂しくはなかった。
この悟りはたしかなものだった。頭ですぐに理解できたし、肌の実感として、母はぼくの中にじんわりと浸透してきたのだから。
先祖供養とは、自分がこの身体全身で自らの命を楽しく全うすることだ。でも、ここで欠かしてはならない決定的に大事なことがある。
それは「ご先祖さまと一緒にいる」という感覚を抱いているということ。これが絶対条件。これが抜け落ちてしまうと、この身体はただの形骸だし、この人生はなんとも中身のない空虚なものになってしまう。
おいしいご飯を食べるのも、海や山でレジャーを満喫するのも、こうした楽しいことを自分ひとりの感覚に押しとどめるのはもったいないしつまらない。ご先祖さまも一緒に、「美味しいよね」「楽しいよね」と感じてくれていることを感じてこそ、自身の供養と先祖の供養が一体となるのだ。
ユニゾン的死者との関係性
じゃあ、ぼくの中のご先祖さまが全知全能の神さまなのかというと、決してそうじゃない。成仏したからと言って、如来さま、菩薩さまと崇められるほどの貴いお方なのかというと、そうでもない。
ぼくの中のご先祖さまは、ぼくの父ちゃん母ちゃんであり、じいちゃんばあちゃんだ。かつて生身の人間だったのだから、うだつの上がらないとこだって、多々ある。
彼らは、ぼくの背中を押してくれることもあるし、迷えるぼくを引っ張り上げてくれることもある。これはとてもありがたくって、心強い。
でも一方で、ぼくにネチネチ甘えてくることもあるし、がんばるぼくの足を引っ張ることだってあるのだ。
みんなよく考えてほしいのだけど、あなたの親は聖人君子だったろうか。いやいやそんなことない。尊敬できるところもあれば、軽蔑に値する面もまたあるよね。幼い時はたくさん脛をかじらせてもらったものの、その分いっぱい迷惑をこうむったことだってあるはずだ。
親だから偉い! 先祖だからすごい! ってなもんではないのは、このユニゾンボイスのぼくでも同じことで、親子喧嘩をするように、ぼくだって、ぼくの身体の中で、親子喧嘩、先祖喧嘩を、よくしている。
ぼくの身体の中は、いつもにぎやかだ。ぼくはぼくの中の死者や先祖と、いつも取っ組みあってる。ともに笑い、ともに迷い、ともに罵り、ともに励ましあう。ともに蒸し暑い残暑にイライラしては、ともに秋の夜風に吹かれながら「秋のお月さんはきれいだねえ」としみじみとしている。
ぼくが嬉しい時はぼくの中のご先祖さまたちも嬉しい。ぼくがイライラしているとぼくの中のご先祖さまもイライラしている。
この嬉しさは、ぼくのものなのかご先祖さまのものなのか。このイライラは、ご先祖さまのものなのかぼくのものなのか。
そうした区別や線引きは、もうどうだっていいのだ。生きることは、楽しく、苦しい。でもそれを、家族や、先祖とともに向き合い、前に進んでいく。この「ともに」が大事なんじゃないだろうか。
パートナーのことを「アゲマン/サゲマン」「アゲチン/サゲチン」と評するように、ぼくのご先祖さまがアゲセンなのかサゲセンなのかは分からない。
でも、ぼくらはいつも一緒にいる。もしもぼくのご先祖さまがサゲセンならば、ぼくががんばることで、彼らをアゲセンにすればいいだけだ。
大事なことだから、もう一回言っておくね。
ぼくの身体の中は、いつもにぎやかだ。ぼくはぼくの中の死者や先祖と、いつも取っ組みあってる。ともに笑い、ともに迷い、ともに罵り、ともに励ましあう。
変な奴だろ? 変な奴だよ。
でも、変でもいいんだ。ぼくは毎日が、にぎやかで、楽しい。
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