家事は、祈り
こんにちは。とむらいマンです。
禅宗では、坐禅だけではなく、普段の生活そのものも修行と考えます。
これを「作務(さむ)」と言うんですが、掃除、洗濯、食事、挨拶、全部作務なんですね。
んで、何のために修行すんの? と問うならば、
「意味はない。ただ座る。ただ作務をする」
のだそうです。
悟りのための目的とか、そんなん、ないらしい。
禅は、きっと自分をどうにかするための教えではないんですね。
ただ無。
でも、その先に「利他行」がある。つまり他人のためになる行いというものに続いている。
この他人のためってのが、とってもいい。
そう思うと、毎日毎日同じことをくり返すばかりの家事をしてくれる妻なんか、ほんと偉いと思う。
彼女はいつも「家事は祈り」と言っている。
たとえば廊下が汚れている。
それをただきれいにするだけでも十分なのだけれど、その先に、
「夫や子供たちが家に帰ってきてくれて、きれいなおうちで喜んでくれるかな」
という想いが込められると、これが他者への祈りに通ずるわけです。
家事って、「ここまでやったからゴール」ってのがないので、禅僧の修行とすごく似ていると思う。
途方もない。積み上げるものもない。
おいしいご飯を作ってもわずかな時間ですぐ食べ終わるし、家の中をきれいにしてもすぐに家族が汚しちゃうし。
そういう途方もない「マイナスをゼロ」にする営みが、本当に尊いと、僕は思うのだ。
付加価値を積み上げることをなにかと善とするこの時代で、マイナスをゼロにするというのはとても大切なことなのだ。
どんなにプラスを積み上げたって、土台がゼロでなければ、プラスはプラスにならないもんね。
ということで、妻が毎朝してくれている掃除のように、これから出社して、お店の中を掃除します。わざわざ足を運んでくださったお客様が、気持ちよくお買い物してくれますようにと、祈りを込めて。
今日もよい一日でありますように。みなさんにとって、私にとって。
禅と家事は、よく似ている。
とむらいマン
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