あなたの死生観、聴かせて下さい。
第8回目は、ジャニヲタを自認する尼僧のひさこむさん(40歳)
アイドルとしての鎧を着続ける彼らと、僧侶としての衣を着る自身を重ね、偶像に生きる者の本音と建前ついて言及してくれました。さらに「いつ死んでもいいし、何かの事故で死んでしまわないかな」と考えてしまうというひさこむさん。死生観を携えることを職業とする僧侶の、衣を脱いだ本音の死生観を聴かせてもらいました。
僧侶とアイドル 偶像として生きることの本音
- 現役のお坊さんが、この企画に申し込んで下さった。とても感謝しています。ありがとうございます。
いえいえ。こちらこそ、ありがとうございます。
- どうして、死生観を語ろうと思ったのですか?
玉川さんのTwitterを見て、ああ、これ私もやってみたいなと。自分の中にあるなんとなくモヤっとしたものについて誰かに聞いてもらい、それを言語化してもらえるならいいなと、そんな感じです。
- お坊さんって死生観を扱う職業で、本音と建前を使い分けて生きている部分があると思うんです。尼僧のひさこむさんと、一個人のひさこむさんを完全に切り分けることはできないと思いますが、ここではぜひとも、一個人のひさこむさんの本音の死生観を聞かせていただきたいです。
はい。可能な限りの本音を語りますね。
- ありがとうございます。いきなりなんですけど、ひさこむさんってジャニヲタじゃないですか。ぜひ、ジャニーズの魅力を聴かせてほしいです。
もともと中学生の頃から好きでいたんですけど、最近はなんかジャニーズやアイドルのことたちを自分の仕事につなげて考えちゃうところがあるんです。
ー そうですか。
推しはいろいろといるんですけど、特にSexy Zoneというグループの中にものすごい人がいまして。
ー どなたですか?
ケンティー。中島健人という人です。もう本当にプロ意識が高くて、一瞬たりともアイドルの顔が崩れないんです。ライブDVDを観てても、スポットライトが当たっていない時も、マイクを持っていない時も、すべて完璧で。ケンティーを観るたびに、「ああ、私も常に中島健人でいなきゃ」って思ってしまいます。
- どんな時もアイドルなんですね。
AKBも好きで。総選挙の時だって、中学生や高校生の若い子たちが一生懸命に自分のよさを理解してもらおうとしている。そういうアイドルの作られている部分に惹かれてしまうんですよね。偶像です。偶像を作り出しているところを、真似しなきゃと。
画像は本人提供。「これだけケンティーの話をしているのにケンティーのうちわじゃなくてすみません(笑)」
ー 僧侶も、ある種の偶像ですもんね。
そう! 私、尼僧ですから。衣を着ているときは周りからはやっぱり普通の人じゃなく見られるんです。だから、足で扉を閉めちゃいけないし、なんならコンビニで唐揚げ買っちゃいけないし。
ー アイドルも、僧侶も、まわりが期待する見られ方というのがありますもんね。
中学生の頃、一番はじめに好きになったアイドルの方がいたんですけど、残念ながら不祥事でいなくなっちゃったんです。
ー ジャニヲタの僧侶として、アイドルの不祥事をどのように思われますか? 偶像として持ち上げられるからこそバッシングも凄まじい。でも人間だれしも過ちは犯してしまうものです。このあたりの問題はとても仏教的だなあと思ってしまいます。
そうですね。偶像の世界にいるなら、偶像でいて欲しいなって思います。うん。偶像の世界にいるときだけは。僧侶であるならば後ろ指を指されることをしてはならない、というのとよく似ていますよね。だからお坊さんたちもキャバクラ行くならバレないように行けと。僧侶と見られるなら行くなよ、と思います。
- はい。
V6っていうグループは2021年に解散しましたが、彼らが26年間、青春時代から大人になるまでの間、アイドルとしての姿でい続けていてくれたことに、ファンとしてものすごい感謝してます。自我が絶対にあるはずなのに、それを封じ込めてアイドルとしての偶像を崩さないのはすごく大変なこと。期待してくれる人がいるから頑張ってたんでしょう、本当に感謝です。
ー ご自身も、衣を着て、自我を抑えて、尼僧でい続けなければならない。だからこそそのすごさが分かるのですよね。
レベルが違いすぎて比較するのが恐縮ですけど、私も日々緊張したまま生きてますんで。
偶発的な死を想像してしまう
ー ひさこむさん自身が、「死生観」と聞いて、どんなことを頭に思い描きますか?
そうですね。私の中で、自分はいつ死んでもいいやっていうのが結構ずっと前からあって。
- 厭世観、みたいなものですか?
いや。楽しいからこそ、今この瞬間に人生が終わったら最高だなっていう感じですかね。
- 「いつ死んでもいい」っていうのは、「死にたい」とは違うのですか?
うーん…。でも、死にたいと思うこともあります。つい最近も、水仙が目に入って、「ああ、水仙って毒だな。これをニラと間違えて親子丼に混ぜて、ガガガって食べたら、私死んじゃうんだろうな」ってヘンテコなことを空想してました。
- 自死願望?
ではないですね。突然死が舞い込んでくるところは想像しちゃうんですけど、自死は考えない。やっちゃいけないと思う。
- それは、なぜですか?
近所でとても仲良くしていたおじさんを自死で亡くしたことがあるんですけど、その時に私の母がものすごく怒っていたのが印象的で、「奥さんや子どもを残して、無責任だ」って。きっとその経験から、周りの人たちを悲しませて、怒らせてしまう死にざまはよくないという自制が働くようになったのだと思います。だから、車が突っ込んでこないかなとか、この飛行機落ちないかなとか、そういう風に考えてしまいますね。
- 偶発的な死を空想してしまうのは、なぜでしょうか?
うーん。そうですね。きっと、私にとって一番怖いのは、周りの人が死ぬことなんですよ。周りの人たちひとりひとりが、私にとっては本当にかけがえのない存在なんです。子どもの頃から親がいなくなることへの恐怖がとても強くて、家族全員の無事をものすごいお祈りして眠る時期がありました。お寺に生まれたにも関わらず、お経とかあんまり読む方じゃなかったですけど、その時ばかりは「お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん。みんながずっと元気でありますように」「病気や事故に遭いませんように」って、強く祈ってから寝ていました。小学校3、4年生のころかな。
- 大切な人に先に逝かれるくらいなら、自分が先に死にたいということですね。でも、自分が事故で死んじゃうと、逆にまわりの家族が悲しむ。そこへの想像は及びませんか?
もちろん及びますよ。それはきっと子どもを産んだことの影響が大きくて。私が不慮の事故で亡くなると、この子たちにすっごい傷を負わせるだろうなって思うようになりました。
- ですよね。
でも、人間ひとりいなくなったところで世界は回るし、この子たちも何とかして大きくなるだろうし、私ひとりいなくなっても世界は続くよなと、やっぱり考えてしまうんです。
- 無常感みたいなものが常にある?
無常感というか、執着があんまりないと思うんですよね。生きることにもそうだし、なんか絶対にこれしたいっていうようなことが多分ない。できなかったらできなかったで、まあそんなもんだよねって、諦めます。
お寺の法要で読経するひさこむさん(画像は本人提供)
- 幼い時に死ぬことがものすごい怖かったって言われてたましたが、ものすごく怖いというのは、ものすごく執着が強い状態じゃないでしょうか?
なるほど。たしかに。
- 今だって、周りの人に亡くなられるのはすごい嫌なんですよね。
そうですね。うん、嫌ですね。なるほどなるほど。そこはちょっと自分でも盲点でしたね。執着はない反面、周囲の死への執着については考えが及んでなかったかもしれない。
- そうでしたか。
うーん。でもやっぱり一方で、「それはそれ」と、受け止めるのかもしれないですね。身の周りで亡くなったのは、父と、祖父、祖母でしたけど、悲しかったもののそこまで大きな喪失でもなかったですし。もしもこれから、母や、夫や、子どもを失うことがあっても、さらっと受け止めちゃうのかもしれない。こればかりは、分からないですね。
僧侶としてのスイッチを切り、火葬場で泣く
ー ここで話が戻るんですけど、僧侶の方は、自身の死の恐怖や不安、そして周囲の方との死別の悲しみと、どのように向き合っているのかなあと、気になってます。
はいはい。
ー 自我と偶像の衝突と言いますか。感情を表に出すと、そりゃ楽だと思いますけど、でも、アイドルがタバコを吸う姿に幻滅してしまうのと一緒で、お坊さんがわんわん泣いている姿って、やっぱり、ご自身も、周りの人も、違和感しかないのかなと。でも同時に、アイドルもお坊さんも人間。タバコも吸うし、わんわん泣くし…。
はじめはものすごく難しくて。僧侶としてのスイッチをオンにし続けることが負担で、苦しかったですね。
ー 具体的なエピソードとかありますか?
うちの地域では、村の方が亡くなると別のお寺の檀家さんでも普通に呼ばれて、違う宗派でも一緒にお経をあげるんです。叔父が亡くなった時に、その地域の慣習に倣って僧侶として呼ばれました。とてもかわいがってくれた方だったので、自分の中の公私が入り乱れて、スイッチが入っているのか入っていないのか分からない状態になっていましたね。
ー 私も「スイッチの入り切り」って簡単に言っちゃってますけど、大変なお仕事だと思うんです。まして人の死の現場でのスイッチの入り切りなので。
でもこれ、完全に切っちゃったら、それはそれで失礼じゃないですか。
ー そうですね。
私、あんまり執着なくてドライな性格ですし、僧侶になってからそういうものの耐性もついたと思うんですけど、やっぱり、一個人としての感情や自我も持ち合わせているんですよ。
ー もちろんそうだと思いますよ。
大切な檀家さんが亡くなった時も、逆に感情のスイッチをオフにしないとやってけないなと思うときもあって。じゃないと絶対泣いちゃうんです。
- そうでしたか。
でも一方で、葬儀でべそべそ泣いているわけにもいかないものの、感情を完全にオフにした僧侶もいやだなと思ったりして。そんな悩みはあります。
ー はい。
私は導師で、亡くなった方を仏様の世界に送り出す役目を仰せつかっているわけですから、そこはしっかりと送らなきゃいけないんだと、葬儀の間は感情のスイッチを切って、導師に徹しています。でも、それは火葬場で最後のお経をあげるまで。そこで私の仕事終わり。そこからは、泣きます。
ー 泣くんですね。
はい。もう結構べそべそと。あるいは帰りの車の中でとか。
ー お檀家さんの前で泣くことも?
ありますよ。でも、そうすることで喜んでもらえることも多くて。そんな僧侶がいてもいいかなとも思ってます。
地域の高齢者施設で法話をするひさこむさん。弔い、法話、寄り添い、地域コミュニティのハブ…。僧侶の仕事は多岐に渡る。(画像は本人提供)
死後の世界はいいところ
ー ぜひとも、僧侶の方にお伺いしたいのですが、死後の世界ってどんなとこなんですか?
私、僧侶のくせにこんなこと言って申し訳ないんですけど、実はあんまり信仰心がないんです。
ー そうなんですか⁉
大事なのは、宗教の教えよりも、目の前の人の幸せだと思っちゃうところがあって、そっちを優先的に考えてしまうところがあるんです。
ー 正直に話してもらえて、ポジショントークをしなさそうで、逆に安心できます。
死後の世界の具体的な描写はできないんですけど、きっとあの世はいいところなんです。そして幸せでいて欲しいよねって願うことが、この世に遺された生きている人にとっての幸せなんだと思うんですよね。
ー なるほどです。
社会学者の古市憲寿さんが、著書『平成くん、さようなら』の中で、「あの世はあると思った方がいいんじゃないのか。あの世が幸せで、輪廻でもう1回やり直せるって思えた方が楽しいから」みたいなことを書かれていて、私もそうかなあと思いますね。やっぱり今を生きてる人が一番大事だし、今を生きてる人たちがいかに前向きに幸せに生きていけるかのために、私たち僧侶は供養してるんです。
ー 死後の世界も、浄土も、生きている人たちのための物語なのですね。
最後に真言宗の僧侶として語るなら、真言宗ではこの世界にあるすべてのものは大日如来を表していると考えられています。仮に亡くなってこの身体が火葬されたあとも、また新たに大日如来の一部としてこの世界に降り注ぐんです。だから、亡くなった後もその人の声を聞こうと思えば聞けるし、存在を感じようと思えば感じられる。生きている人を勇気づけてくれるこの教えが、私は好きです。
ー 僧侶としてのポジショントークじゃないですか?
ひさこむの本音です。僧侶の衣を脱いだとしても、私はこの考え方が好きですね。
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