お仏壇というのは本当によくできていて、仏さまや故人さまを感じるために、五感をフルに開かせてくれます。
仏さまや亡き人といった、‟目に見えない”存在とつながるためには、視覚以外のあらゆる感覚をフルマックスで研ぎ澄まさなければならないのですが、お仏壇ではそれがごく自然にできてしまうのです。
そして、その開かれた感覚が、ことばではなかなか説明のつかない「第六感」のようなものにつながっていくのではないかと思っています。
この記事では、お仏壇のさまざまな場所にちりばめられた五感を開放するための仕掛けについてご紹介いたします。
五感で感じるお仏壇の世界
五感とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、のことです。
見て、聴いて、嗅いで、味わって、触って、ということですね。
仏さまや亡き人の存在というのは、ことばで簡単に説明のつかないものです。
ことばを組み立ててその存在を証明するなんてのは野暮で、一人ひとりの心の中で感じ、つながり、向き合うための存在ではないでしょうか。
人は情報の8割を視覚から得て、残りの2割を他の感覚から得ているのだそうです。
ですから、この世のさまざまなものは、視覚を中心にして作られています(この記事だって、目で追って読まれているはず)。
大切な人を失うということは、その人が視覚至上主義のこの世界の住人ではなくなったということです。だからこそ、視覚8割で生きるぼくたち人間は、大切な人との死別に、戸惑い、うろたえ、悲しむのかもしれません。
亡き人の姿を見ることはおろか、声を聴くことも、匂いを嗅ぐことも、キスをすることも、抱きしめることも、二度とできません。
でも、五感をフルに開放して、亡き人への意識を心の奥底にまで向けることで、その存在を感じることができるでしょう。
そして、五感をフルに開放するその手助けをしてくれるのが、お仏壇です。
お仏壇がどのように五感を研ぎ澄ませてくれるのか、一つひとつ解説いたします。
視覚
まずは視覚で感じるお仏壇の世界です。
本尊と位牌
お仏壇の中には、ご本尊(掛け軸や仏像)が祀られ、位牌が並びます。
ご本尊は仏さまを、位牌は故人さまを表します。
仏さまというのは、簡単に言ってしまうと、人間の人智を超えた‟はたらき”だと思うんですね。それを人格化したのが仏さま。
また、位牌は故人さまそのもの。位牌それ自体はただの漆塗りの木の板で、その中に故人さまの魂が込められていると考えられます。
ですから、仏さまや故人さまというのは、そもそも目に見えるものじゃないんです。仏さまははたらきであり、故人さまは霊魂である。
でも、それじゃあ視覚至上主義の世界に生きるぼくたちは、仏さまや故人さまをどう認識すればいいのか分からない。
だからこそ、目に見えない存在を捉えるために、本尊や位牌という「形」あるものをそこに置き、魂を込める儀式を行うことで、そこにその存在が宿ったこととするのです。
美しい荘厳、お供え物
そして、本尊や位牌が並ぶ空間を、ぼくたち人間は、美しく、かっこよく設えます。寺院建築を模した仏壇はまさに伝統工芸の粋を集結させたものですし、最近はモダンでカッコイイ仏壇も人気です。
きれいなお花や故人さまが好きだったお供え物が並ぶ華やかな姿も、ぼくたちの心を晴れやかにしてくれます。
ぼくは以前、仏壇のほの暗さについて書きましたが、灯りのゆらぎや幽玄さもまた、視覚から感じる霊性だと思うのです。
聴覚
お仏壇において聴覚に訴えるのは、おりんの音と、お経の響きです。
おりんの音
お仏壇に手を合わせる時は、必ずおりんを叩きますよね。
「ちーん」と音を鳴らして、心を静かに落ち着けて、そして合掌をする。
心の奥底で響く感情の揺らぎのことを「琴線に触れる」などと言いますが、まさにこの表現を体現しているのが、おりんの力だと思います。
おりんの音って、棒で叩いて音を発したあとに、長く長く、か細く伸びていきます。その伸びに、あなたの心を乗っけてほしいんですね。
心の奥底に、空のかなたに、遠い彼岸に…どのような心象風景を描くかは人それぞれだと思うのですが、いずれにせよ、その先に故人さまを感じられるでしょう。
「ちーん」とおりんを叩いたならば、まずは耳を澄ませて、音が消えてなくなるまでの余韻をしっかりと味わってほしいものです。
お仏壇の前に座る時だけ時間がゆっくり流れる。そんな贅沢な時間を作ってくれるのが、おりんの響きです。
お経の響き
お仏壇で手を合わせる時に、お経を唱えるという人は少なくありません。
お経は読まずとも、お念仏(南無阿弥陀仏)やお題目(南無妙法蓮華経)をお唱えするという人もたくさんいます。
そういった仏さまへのことばではないにしても、あいさつ、近況報告、愚痴、願いごとなど、ぼくたちは何かしらのことばをお仏壇に向かって投げかけます(くわしくはこちらに書いています)。
そして面白いのは、そのことばは、耳を通じて、そのまま自分へのことばとして還ってくるということです。
仏さまも、故人さまも、そしてあなた自身も、あなたの声を同じタイミングで聴いている。その瞬間、三者はひとつになっています。
仏さまと一緒。故人さまと一緒。そのことの幸福感、充足感を、ぜひあなたにも感じてほしい。お仏壇の前だからこそ感じられる感覚です。
そして、もうひとつ伝えたいのが、お坊さんのお経の力。供養の専門家であるお坊さんが読むお経は、格別です。
千年もの長い時間をかけて、この国で長らく読まれ続けてきたお経。いろんな時代の、さまざまな場所で、同じことばが、同じ抑揚と節回しで、亡き人に手向けられ続けたお経の響きが、沁みます。
お経には、仏さまを讃え、わたしたちを安心させてくれるためのことばが並びます。その響きを、耳を通じて全身で、深く、深く、感じてもらいたいものです。
嗅覚
嗅覚は、人間の五感の中で、もっとも本能的な部分と言えます。
お香の香り
動物たちが、相手を敵か味方かをみなすのも匂いだと言いますし、食欲や性欲など、動物的欲求をそそるのも、嗅覚です。
香りはリラックス効果にも有効です。リラクゼーションのためのお香や精油を使われているのはみなさんのよく知るところですよね。
仏さまや故人さまによい香りをお供えすることは、きわめて原始的な営みなのだと思います。よい香りを焚くだけで、あたりの空気が一新され、空間が浄化されます。
実際には、空間そのものは何も変わっていないけれど、いい香りが漂うと、ぼくたちの認識が、その場を俗域から聖域にスイッチする。お香にはそれだけの力があるのです。
亡き人と向き合い、つながるには、いろいろな思慮や雑念を振り払って、気持ちを落ち着けなければなりませんが、お香の香りが、その一助となってくれます。
味覚
味覚とは「舌」を通じて得られる感覚ですが、お仏壇における味覚とは、2つあるのではないかと思います。食べ物と、ことばです。
お供え物のお下がり
お仏壇には、お供え物を並べますが、これらは、お下がりとして食べてこそ、はじめて供養が完成するのではないでしょうか。
「供養」って、「供えたもので養われる」と書きますよね。ですから、仏さまや故人さまにお供えしたものを自分が頂くことで、より強くつながりあえるものなんです。
人間って、同じものを食べることで絆を強めます。家族や親戚、友人、会社の人たちとただ話すよりも、ランチや飲み会の方が話が盛り上がりますよね。
民俗学の世界にも「神人共食」ということばがあって、お供え物のお下がりをみんなで分け食べあうことで、仲間や共同体の結束を強める事例というのは、古今東西あらゆる場所で見られるそうです。
仏さまへのことば
もうひとつは、あなたの口から放たれることばです。
さっきの「聴覚」の箇所で触れた内容に重なるのですが、仏さまや亡き人へのことばは、あなたの舌に乗って発せられます。
浄土真宗のとあるお坊さんが、仏さまの教えのことを「法味」と表現してて、うまいなあと思ったことがあります。
また、仏教では「甘露」ということばを用いて、仏さまの悟りの境地を表現しています。
「あいつのことばは、味わい深いなあ」などと、何かを讃える時に「味」ということばを使って表現するケースも少なくありません。
あなたがお仏壇でお経を読んでいる時、亡き人にことばを投げかけている時、あなたの舌の上には、どのような法味が広がっているでしょうか。そのことばを、亡き人はどう味わってくれているでしょうか。
そんなことを想いながら、お仏壇に向き合う時間は、とっても穏やかで、味わい深いですよ。
触覚
最後は触覚。お仏壇に向き合う時の触覚とは、まさに合掌です。
合掌。手のひらと手のひら
お仏壇に向き合うことを「手のひらを合わせる」と表現します。
合掌の姿勢こそが、お仏壇での礼拝の基本です。
お互いの手のひらと手のひらを重ねているだけなので、右手はあなたの左手を、左手はあなたの右手を、知覚するだけです。
でも、不思議なもので、合掌をしてお仏壇に向き合っていると、手のひらの内側があたたかくなってくるものです。そこに、仏さまのはたらきを感じたりします。
合掌の発祥はインドだそうです。
インドでは、右手は清浄、左手は不浄と考えるそうです。
しかし、一切の区別を取っ払う仏教において、左右の手のひらを合わせることは、そのまま仏さまの境地を表すことになります。
清浄も不浄も、生も死も、わたしもあなたも、そんな区別はない。すべては溶け合って、ひとつなのだ。そうした願いを込める姿勢が、合掌なのではないでしょうか。
開かれた五感から、第六感へ
情報の8割を視覚から得ていると言われているぼくたちですが、お仏壇の前に座ると、そんなの関係なく、すべての感覚が等しく解き放たれます。視覚だけでなく、あらゆる感覚に訴える仕掛けが、お仏壇にはたくさんある。
そして、五感を開放することによって開かれる第六感的な領域で、仏さまを感じ、亡き人と会話ができます。
「仏なんていないよ」
「死んだ人と話せるわけないじゃん」
…と考える人もいると思いますが、それはそれでいいと思います。
だって、仏さまや亡き人とつながることって、きわめて個人的なことですからね。
そこには宗教観や死生観の個人差もあるし、一人ひとりの思い出や物語もありますし、だれかと比較したり、共感したりというのが、なかなかできにくいものなんだと思います。
この記事を読んで…
「霊感があるとかないとか分からない」
「仏さまや故人さまの存在なんて感じられない」
と思ってもらっても構いません。
でもせめて、お仏壇には五感をフルに働かせる仕掛けがちりばめられている、ということは知っておいてもらえたら嬉しいです。
遠い昔から、ぼくたちの祖先は、そうやって目に見えない存在にアクセスしていたのだと思います。仏壇は人類の叡智の結晶です。
お仏壇は、暮らしの中に溶け込んだ非日常空間です。あなたにちょっとした癒しの効果や、自己内省の時間をもたらせてくれます。
そして、日々を一生懸命生きているあなたの姿を、お仏壇の中から仏さまや亡き人が見守ってくれているんだということを、ここでぼくが断言しておきます。
仏壇カタルシスとは…
仏壇店に勤務するライター・玉川将人が、
インド仏教最高指導者・佐々井秀嶺師からの…
あなたが仏壇の本を書きなさい。
ここにいる人たちの力を借りて
ここにいる人たちのために
本を書きなさい。
…という宿題を成しとげるべく、仏壇にまつわるお話を語っていきます。
あなたの力を貸して下さい。あなたのためのことばを綴ります。
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