ことばにならない 祈りのことばが 南無阿弥陀仏

住職。 極楽浄土ってあるんですか?

そんなもん、わしは知らん!

 

こんにちは。とむらいマンです。

「緊急入院じゃけえ、お寺に来ても誰もおらんよ」

とわざわざメールをくれた住職。

末期ガンの人に、余命いくばくの人に、

ましてや宗教者として死後の世界を語り続けてきた住職に、

僕はどんな声をかけるべきなのか。

悩んで、悩んで、悩みあぐんで

「南無阿弥陀仏」の

6文字を住職に届けたのでした。

 

 

向こうはお念仏のプロですから、

こんなセミプロ以下の僕が、お念仏を届けるのもどうかと思ったのですが、

南無阿弥陀仏のお念仏はそんなちっちゃいもんじゃないし、

住職も、そんなちっちゃい人じゃない、と想い、

メールしたのでした。

浄土真宗のお寺に生まれたなら、

子供の時から親からいやというほど南無阿弥陀仏を聞かされて、

自分もいつか寺の住職になるのだから南無阿弥陀仏を唱えなさいと言われてきたに違いない。

朝に昼に夕べに、唱え続けてきた南無阿弥陀仏。

お寺の集まりで、門徒に向かって、あるいは自分の心の中で。

きっと住職にとっては南無阿弥陀仏は、

信仰心とか仕事とか、なんかそういうもんじゃなく

うまく言えないんだけど、客体化できるようなものじゃなく、

きっと、空気のように吸い込み、

血液のように体の中に流れるような、

とっても自然なものだったんだろうと、

僕は勝手に想像している。

そんな住職に僕は、

住職のお家芸、ライフワーク、自分そのものと言ってもいいかもしれない、

「南無阿弥陀仏」

の6字をメールで送ったのです。

失礼かな。

場違いかな。

でもなあ、

いろいろ考えて、

考えまくって、

いまから緊急入院するという人に、時間も残されていないし、

この言葉しか、なかったんです。

きっと

この世を穢れとして嫌っていた人たち、

そして、遥か彼方の極楽浄土への往生を願っていた人たち、

大昔から、いままさに死が目の前に訪れている人たちは、

言葉にならない恐れ、絶望、諦め

そういうものに対峙して、

これまた、言葉にならない祈りを捧げたのだと思うんです。

その祈りを込められる言葉こそが、南無阿弥陀仏のお念仏。

もちろん

「南妙法蓮華経」の人もいるだろうし、

「アーメン」の人も、

「アラーアクバル」の人もいるだろけれど、

住職の場合は、きっと南無阿弥陀仏だろうなと。

震えながら、送信ボタン、押しました。

その7日後、

この世を去った住職。

大変お世話になりましたし、大変罵られもしました。

そんな住職。

彼岸の入り、

真西に沈む彼岸の太陽に迎えられ、

極楽往生されたのでしょうか。

したに違いない。

いや、してないかもしれない。

極楽浄土なんて、

あるのかないのか分からない。

往生しているのかいないのか、

僕たちには分からない

だけど、多分、

「していてほしい」という僕たちの心の中に

極楽浄土は築かれていくものなのだろうなあ。

と、思う。

歯に衣着せない、建前も言わない、

いつも本音の住職。

あの世でもその性格は変わらない。

「住職! 極楽浄土ってあるんですか?」

「そんなもん、わしは知らん!」

その痛快さは、優しさだった。

 

今日はとっても個人的なブログでした。

この場を借りてご冥福をお祈りいたします。

 

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏

 

とむらいマン

 

前回のブログ『生死の境にいる人よ ことばにならない祈りを「南無阿弥陀仏」にして捧げる』もどうぞ。

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