令和を迎えるその前に! 平成30年間のニッポンの弔いを振り返る

さようなら、平成。こんにちは、令和。

変わらないのは、弔う想い

 

こんにちは。とむらいマンです。

今日は4月30日。もうすぐ平成が終わるんですね。

令和という新しい時代は、弔いがもっと手厚い社会になってほしい。

死者と一緒に生活する社会になればいいなと思ってます。

平成の30年間。社会は激動でしたが、ニッポンのおとむらいも激動でした。

そんな平成のおとむらいを振り返ろうと思います。

参列を制限する家族葬の光と影

直葬:火葬だけすること。通夜や葬儀のセレモニーを行わない

家族葬:家族や親族だけが集まって葬儀をすること。他を呼ばない。

つまり葬儀の縮小化がぐぐぐぐっと進んだのが平成でした。

これにはいくつかの社会的背景があります。

 

●高齢化社会

故人と同じ年齢の人もすでに高齢でお参りが困難または亡くなっている。

●景気低迷

バブル崩壊による景気低迷で、人々のお財布の紐はキュッと縮まりました。

●地域社会の希薄化

ご近所さんを葬儀に呼ぶことが減りました。

●葬儀会館の普及

葬儀の場として葬儀会館が選ばれ、葬儀が地域の営みではなくなった。

 

小規模葬儀のプランを「家族葬」という名でパッケージングした葬儀業界。

正直ネーミングめちゃくちゃ上手だからここまで普及したのでしょう。

実際には家族葬と言いながら、

「ご近所の人たちだけは〜」

「お世話になったあの人たちには〜」

と家族以外の人たちにも参列してもらうのはよくある話です。

昭和の後期、あるいは平成に入った直後のバブルの頃のあの豪華な葬儀スタイルに辟易とする空気があったのはたしか。

その辺りは1984年に公開された伊丹十三さんの映画「お葬式」と、2006年に公開されて大ヒットした映画「おくりびと」を見比べることで違いがよく分かるのではないかと思います。

バブルが一気に崩壊してお葬式にお金をかけられないという心理が働いたのはしょうがないでしょう。

家族葬がここまで普及したのは、何も費用の問題だけではなく、慣習やしきたりベースだったお葬式をもっと個性的な、つまり自分たちが望むような葬儀を行いたいというニーズが広がったからに他ならないでしょう。

「安く」「楽に」という傾向に拍車をかけたのは家族葬の罪だととむらいマンは思っていますが 、

同時に自分たちらしい葬儀、つまり葬儀に「意味を持たせたい」「 それを形にしたい」

という思いを実現化させていったのは、家族葬の功績だと思います。

最も大事なのは人が集まること。

亡き人と残された者が最後に出会うこと。

親戚や友人がが葬儀に駆けつけ、遺族とともに悲しむこと。励ますこと。

人と人が集まれば、お金があろうとなかろうと、祭壇が豪華だろうと小さかろうと、料理があろうとなかろうと、お葬式は成立するのですから。

人と人とがあうことを制限する家族葬。

やっぱりアップデートが求められる。

(詳しくはこちらのブログ!家族葬の良し悪し。人は人に会うことで救われるのです

 

葬儀の本質を抽出した傑作映画『おくりびと』

映画「おくりびと」おくりびとのヒットは葬儀業界にも結構な影響を与えたのを覚えています。

当時僕は東京の葬儀社に勤めていたのですが、会社から「空いた時間使って全社員がおくりびとを見に行くんだ」と通達がありました。

豊島園のシネコンにお通夜が終わったあと、夜10時ぐらいだったと思うんですが夜な夜な一人で見に行きました。

「もっくんのチェロきれいだなぁ」とか

「広末涼子とのちょっとした濡れ場があんまり色っぽくないなあ」とか思いながらも

どうしてこの映画が売れるのだろうかというのをぼんやり考えていました。

 

僕自身、伊丹十三監督が大好きだったのでどうしても『お葬式』と比較をしてしまうのですが

1984年に作られた『お葬式』と2008年に作られた『おくりびと』では

あきらかに葬儀に対しての違いというものが見受けられました。

つまり人々が葬儀に対して何を求めているのかということですよね。

伊丹十三さんの『お葬式』は祭壇だったり、お坊さんだったり、葬儀社が進める一連の流れだったり、近所の人が集まって行う炊き出しだったりとか、

いわゆる葬儀のしきたりの部分、社会的な部分とでも言いますか、

そのアウトラインを大事にしていた当時に人々の陳腐な様子を、

伊丹十三独特な風刺でブラックユーモアとして描いていたのではないかと思うんです。

つまりそれは

「弔いなのに、故人そっちのけで行われているゾ」

「お葬式の本質からずれて離れているゾ」

という批判をユーモアに換えているとも受け取れるわけです。

それに対して、

 

葬儀の本質は故人に向き合うことだ!

 

として提示された映画が『おくりびと』だったのではないでしょうか。

なぜなら『おくりびと』という映画のその主人公は、故人でもなく、喪主でもなく、お寺でもなく、葬儀社でもない、納棺師だからです。

亡き人の遺体に直接手を触れる、まさに故人にダイレクトに向き合うことが仕事。

映画の中で 葬儀社スタッフはちょろっとしか出てきませんが、元請けのいやらしいみたいなものをサラッとうまく描いていたのを覚えてます。

実際に僕は葬儀屋さんに勤めていて一番大好きな仕事が納棺でした。

なぜならば、通夜葬儀が始まると それらは儀式、セレモニーですから、どんなに家族葬だとしても、遺族は喪服に身を包み、数珠を左手に、緊張を強いられるものです。

納棺は、いつもの服装で、住み慣れた家で、

家族と亡くなった人が肌と肌を触れ合うことのできる最後の時間なのです。

祭壇とか、立派な式場とか、葬儀社による演出、

こういったものは葬儀の本質ではなく、一番大事なのは亡き人と家族が一緒にいる時間ではないでしょうか。

その本質を、納棺師という、葬儀社の下請け、黒子も黒子、いちばんの汚れ役にしてゆえに貴く尊い立場を主人公にしてうまく抽出したという点においても、傑作だったなと今でも思います。

ちなみに 葬儀屋さんと言われると結構下に見られることが多かったのですが、(死人相手に商売しやがってと罵られたこともあります)

『おくりびと』が公開されてからは、周りの人たちからの見方が若干変わったように感じたのを覚えてます。

「おくりびとを見てこの仕事を志望しました」 と言う新入社員が増えたのも覚えていますし、

実際の変死現場や腐乱死体にすぐに会社を辞めていった人たちがたくさんいたのもまた事実です。

Amazonのお坊さん便は、お坊さんが佐川急便で運ばれてくるわけではないのに、与えた衝撃が大きかった

宗教界に激震を、社会にどよめきをを走らせたAmazonの「お坊さん便」。

要は僧侶派遣のマッチングをAmazonが行うというもの。

まあこれだけインターネットがインフラ化し、どんな業界でもマッチングサイトというのは増えているわけですから、お坊さんマッチングサイトがあったって、そんなおかしくはないわけです。

 

しかし、お坊さんが派遣される図は、少々滑稽で物悲しい感じがするのも事実。

実際にお坊さんが物流倉庫からヤマトや佐川の宅配者に乗せられて運ばれてくるわけではないのですが、「Amazonがお坊さんを派遣する」ショックは少なからずありますよね。

お坊さんは、死者の供養を行う専門家ですから、 特に仏教界からは Amazon に対して激しい非難が沸き起こるのですが 、

では自分たちが世の中に対して求心力を持ち合わせているのかと言うと、そうでもないという現実があります。

お坊さんの仕事は死生観や死後観を語ることで、人々の死にまつわる悩みや不安を少しでも和らげること、その一点に尽きます。

だから最も AI にとって変わりにくい仕事であるはずなのですが、

依頼する側がお坊さん個人に直接依頼するのではなくて、

一旦 Amazon と言うシステムに依頼をしてしまう。

ここが最大のポイントではないでしょうか。

お坊さん側がそんなに仕事が欲しいのなら、

法事にきて欲しい、というユーザーからのニーズに対して、

すぐに自分の名前思い出してもらえるような普段からの営業活動が求められます。

(仏壇店の営業マンなんて、それこそが毎日の仕事です)

まあそれを布教というのでしょうが、Amazonなんかに頼らなくても

「お坊さんうちのじいちゃんの法事に来てください」

と、ひとりでも多くの人からそう言ってもらえるような信頼関係を構築することが大事なんですよね。

インターネットがこれほど発達しているからといってやることはそんなに変わらない。

毎日の地道に地道なお檀家さんや信者さんとの信頼作り、これに尽きます。

リアルでもネットでも、やることは変わらない。

 

イオンのお布施定額問題から、お寺さんの努力不足とお布施の本質を浮かび上がらせた

Amazonと並んで宗教界を揺るがせたのがイオンのお布施定額制の導入です。

お布施は一般ユーザーからするととってもグレーで、意味がよくわからない代物。

その上、超高額なわけです。

お坊さんが叩かれる一番のポイントがお布施。

それに対してイオンはお布施の定額をドドンと出してきた。

マーケティングに長けた日本一の小売企業による極めてユーザー目線に立ったアクションだと思います。

お布施の定額制がここまで仏教会にどよめきを与えたのは、それだけ仏教界が人々に、葬儀や 供養やお経の価値を与えられなかったからに他なりません。

 

なぜなら、人は、価値を感じるものにはお金を払うからです。

 

例えば今流行りのクラウドファンディングはとってもお布施に似ているなあと思うわけですが、

資金調達したい人たちは、一生懸命これでもかこれでもかと自分たちの熱い思いをプレゼンするわけです。

そうした地道な努力が、人々から支援という形でお金が集まる。

お金をたくさん持っている人もいれば少額の人もいるでしょうけども、それでもお金という形で支援が集まってくるわけです。

本来、僧侶へのお布施とクラウドファンディングはすごく似ている。

(詳しくはこちらのブログを!相場よりも大事なこと お布施と「スナックキャンディ」の思想がソックリ!

そういう努力や取り組みを仏教会がしてきたかという問いが、お布施定額問題には表裏一体となっています。

ちなみに僕個人はお布施の定額制には反対です。

「15万円包めばそれで供養OK!」

と思わせてしまうそのマインドセットがこわいからです。

お布施はちょっとくらい多い方がいいんです。

少ししんどいけどそれくらいのことを亡くなったおじいちゃんおばあちゃんにしてあげた。

この感覚が大事だと思ってるからです。

 

書ききれないぞ、平成のお弔い

とにもかくにも時間がない。本当はほかにもこんなことを書きたかった。

●りすシステム

●樹木葬

●散骨

●終活ブーム

●納骨堂

●墓じまい

●東日本大震災

●臨床宗教師

●エンバーミング

●小さなお葬式

●横須賀市のわたしの終活登録

●エンディングノート

●八木研の現代仏壇

●島田裕巳とゼロ葬問題

●オウム真理教

●天皇陛下 400年ぶり火葬のご意向

 

このへん、また時間を見つけて書いていきたいと思います。

 

最後に 令和のあるべきお弔いのカタチ

とむらいマンは、とうぜん令和になっても弔いに生きるのですが、新しい時代、この国の弔いはどうなるのでしょうか?

新しい供養や葬儀の形として、ロボット和尚なるものも出ていますし、宗教や供養にもAIが導入されるのでしょう。

このへん、リテラシーの低い僕にはついていけず、全く予見できないのですが、

予見ではなく、僕個人の考える全くの希望を書いておきますね。

お寺は僧侶が語る場から人々の話を聴く場へ

仏教や宗教がもつ「大きな物語」

これを檀家や信者がふんふんと聞くという構図が宗教にはずっとあったと思います。

しかし、SNSがここまで発展し、人々が自分たちの物語を語る時代。

お寺はそうした小さな物語を語りあえる場として機能するのだと思います。

さらには、僧侶の仕事も「語る」から「聴く」へ。

すでにこうした取り組みを行っているお寺はたくさんあり、

臨床宗教師や臨床仏教師の取り組みも、傾聴の重要性が求められているからでしょう。

(詳しくはこちらのブログ!聴くことの大切さ 物語を語り、受け止め、分かち合う

 

葬儀はふたたび人が集う場へ

家族葬の物足りなさを感じている人は多くいること。

やっぱり最期に亡き人に会いに行きたい。

モノ消費からコト消費と言われる時代。

祭壇や演出よりも、亡き人と遺されたもの、遺族と参列者が「一堂に集まる」ことがさらに支持されていくのではと思います。

その形はさまざま。お別れ会や偲ぶ会もそうでしょうし、香典やおもてなしの考え方も変わるかもしれません。

でも、とにかく、人が人に会う。これが葬儀の本質である以上、家族葬の反動というのは少なからず起こり得るし、そうであってほしいというのがとむらいマンの願いです。

信じているぞ! 先が読めないお墓の行方と可能性

いちばん先が読めないのが、お墓。

僕も毎日悩んでは、ああだこうだと色んな人と議論しては、解決策が出ません。

お寺の納骨堂がいままで以上に注目されるのは間違いないでしょうが、

僕はやっぱり個別のお墓を望む人たちが一定数いるのではと思ってます。

遺骨や遺体の供養には、埋葬と礼拝、つまりは土と石が必要不可欠なのです。

東日本大震災以降、色んな場で再認識されてきたつながりの大切さ。

いまの世の中、時間を百年単位でしか見ない傾向にありますが、

千年単位での死生観が、社会観が求められるとき、千年の時を超えることのできる「石」が必ず必要とされます。

樹木葬や納骨堂や散骨では受けとめきれない、見えない者に対しての畏れや祈り。

土と石。お墓ってバカにできないと思います。

 

なにはともあれ、

僕たちは、望むと望むまいと両親のもとに生まれました。

その両親にも両親がいて、さらに両親がいて、それが先祖関係へとつながっていく。

まずは亡き家族、そして大切な人たちを向き合うことが普段の生活の中で当たり前に行われる社会。

令和は、今まで以上に、祈りと弔いが明るく行われる社会であってほしいと、とむらいマンは願います。

家族サービスしながらの駆け足のブログ。

平成最後の、ブログでした。

さようなら、平成。

こんにちは、令和!

未来を明るくするのは、僕たちです!

 

とむらいマン

 

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